13:黒雨の夜
「急いで!」
ユリカたちはイカスツリー前のマンホールから飛び出すと、必死になって辺りを見回した。辺りはすっかり暗くなり、星が瞬いている。しかし、付近に兵器はおろか、タコ1匹すら見当たらない。ユリカは焦る気持ちを抑えながら、広場の出口に向かおうとした。
「あそこですわ!」
その時、ヒメカが空を指差す。急いで見上げると、ビルの上に奇怪な形の影が見えた。
「行こう!」
ユリカは迷わず、走り出す。広場を出てからも尚、速度を緩めることはない。途中で、黒いコードのようなものを踏んづけた。
『キタカ』
ビルの近くまで来ると、タコゾネスの反響した声が聞こえてきた。
「観念しなさい……あなたたちの計画は、ここで終わりよ!」
サンゴがビルの上の影に向かって叫ぶ。その手には、ヒーローシューターが握られていた。
『フフフ……ケイカクハ、カナラズセイコウスル。オマエラニハトメラレナイ』
タコゾネスの姿は相変わらず見えない。しかし、その口振りから、不敵な笑みを浮かべていることが想像できた。
『ソコデミテイロ……セカイガクロニソマル、ソノシュンカンヲ!』
タコゾネスが叫んだのを合図に、ビル上の影が動き出した。
「一体、何を……?」
影がその場で傾き始めたのを見て、ユリカは口を開きかける。タコゾネスが『タコツボ兵器』と称していたそれは、丁度ジョウロのような姿かたちをしていた。
「来る……ブキの準備を!」
サンゴがヒーローシューターを兵器に向かって構える。それに合わせて、クローバー以外の全員がブキを取り出した。
「…………雨?」
少しして、空から冷たいものがユリカの頬に落ちてきた。指先で触れると、そこに黒い液体がこびりつく。
「まさか……これって……」
「ユリカちゃん、どうした?」
レイの問いに答える間もなく、ユリカは振り向いて叫んだ。
「みんな、どこか屋根のあるところに――――」
ユリカの声は、背中に落ちる黒い雫と、ノイズ音のようなざわめきに掻き消された。
なに、これ……?
雨の中、クローバーは立ち尽くしていた。目の前ではユリカを始め、その場にいたイカたちが皆地面に突っ伏している。雨粒が、首筋を伝っていくのが分かった。
遠くで、タコゾネスが高笑いしている。クローバーは崩れるようにして地面に膝をつくと、地面を見下ろした。真っ黒なインクが覆う地面。全て、空から降ってきたものだ。
本当に、全部嘘だったんだ。顔を歪ませて堪えても、涙は止まらない。こうなったのも、全部、全部、私のせい……。
目の前で苦しんでいるユリカを見る。あれだけ必死になって、自分のことを考えてくれた唯一の人。それなのに、彼女は自分の持つインクで窮地に追いやられている。もし、このまま雨が止まなかったら……嫌だ、そんなの、見たくない。クローバーは立ち上がると、駆け出す。大声で泣き叫んでいたが、雨音が全て消し去ってしまった。
「あぐ……っ」
不意に足元を取られ、転ぶ地面に伏せたまま、クローバーはすすり泣いた。このまま、タコさんたちのセカイになってしまうのかな。そう考えるだけで、悔しさに胸が張り裂けそうになった。
少しして、ゆっくりと立ち上がる。いつの間にか、イカスツリーの近くまで戻ってきていたらしい。靴が脱げていたので、振り返って履き直そうとした。しかし、伸ばしかけた手は途中で止まった。
クローバーは黒いコードに足を引っ掛けていた。こんなもの、ここには無かったはず……それに、これはタコたちの……。
身体中に電撃が走るような感覚。そうか、あの兵器は……。フラフラと立ち上がると、上空の影を睨みつけた。
「クロだって……みんなを助けたい」
今が、そのときなんだ。黒雨の中クローバーはコードの先を追って、駆け出した。
黒い雨は、容赦なく降り続いている。ユリカは虚ろな目で、地面に横たわっていた。
黒インクによるダメージと不快感がジワジワと襲ってくる。目だけを動かすと、同じように倒れているハヤテが見えた。
今度こそ、ゲームオーバーなのかな……。ユリカにはもう、涙を流せる体力すら残っていなかった。視界隅に映る自分の青いイカ足が、徐々に黒へと染まっていく。黒インクの浸透圧に呑まれていく恐怖を感じながら、ユリカは目を閉じた。
気づけば、雨音は消えている。ああ、そうか、あたしは……。
「起きて……ください……!」
聞き覚えのある声。目を開けた途端、真っ青なインクが一面を覆った。
「は、ハヤテ君……?」
顔にかかったインクを振るい飛ばしながら、ユリカは起き上がった。すぐそばには、おぼつかない足取りで立っているハヤテがいた。
「へへ、言いましたよね……オレ、身体は丈夫な方だって……」
ハヤテが鼻下を擦って言った。
「とにかく、雨が止んだ今の内に、皆さんを目覚めさせないと……反撃のチャンスですよ!」
ハヤテがそう言うと、すぐに他のイカの方へと駆け寄る。ユリカも辺りを塗り返し、皆をインクに潜らせた。
「た、助かりましたわ……」
「でも、誰があの雨を止めたんだ?」
全員が意識を取り戻したあとで、ユリカはビルを見上げる。浮いていたはずの兵器が、ビルの屋上に力なくもたれかかっていた。
「きっと、クローバーが……兵器の止め方を知っていたんだわ」
サンゴが立ち上がると、同様にして空を仰ぐ。そして、ユリカに顔を向けた。
「ユリカ、タコツボ兵器は破壊しなければ何度でも蘇るわ。そして……タコを倒すなら、今しかない」
ユリカは迷わず頷くと、デュアルスイーパー・ポップを構えた。
「あたしがあのビルに上って、兵器を壊す。みんなは……」
「当然、サポートするぜ!」
レイが胸を叩いた。ユリカは頷くと、キャップの鍔を少し上げた。
「行こう……この戦いを、終わらせるために!」
ユリカはデュアルスイーパー・ポップのトリガーを引き、インクの中を突き進んだ。
『サセルカ……!』
タコゾネスの声と共に、複数のタコたちが降ってきた。
「行くっす!」
ハヤテが前へ飛び出すと、タコトルーパーを叩き倒す。続けてレイの放ったインク飛沫に、タコたちが散っていった。
「ユリカさん、タコさんたちのことは気にせず前へ……あのビルへ向かうことだけを考えてください! 敵は全て、私たちが相手をしますわ!」
ヒメカがタコプターにインクを当てながら叫ぶ。ユリカはイカ形態になると、全速力で泳ぎだした。
「邪魔はさせない……!」
ライトが目の前に転がってきたスプラッシュボムを撃ち弾いた。
「『スーパーショット』なら……まだ残ってるわ!」
サンゴのヒーローシューターが青インクに包まれると、巨大なバズーカ砲へと姿を変える。そこから放たれた『スーパーショット』は、周辺のタコを薙ぎ倒していった。
「ユリカ、そのまま壁へ!」
サンゴが叫ぶと、最後の1弾でビルの側面を塗った。ユリカはジャンプすると、勢いを止めることなく壁を上り始める。
「敵は1人じゃないっすよ!」
ユリカの近くにいたタコが、爆発して消えた。そこから飛び散った青インク飛沫が、頭上の側面を塗る。
「行け、ユリカちゃん!」
「兵器はすぐそこですわ!」
レイとヒメカが、更にその上を塗った。
「突っ切るんだ!」
ライトの斜線が、ビルの角にかかる。直後、ビル上まで続く、インクの道が出来上がった。
「はあああああああああああっ!!」
ユリカはビルの側面から、空中へと大きく飛び出す。兵器を見下ろすと、タコゾネスがこちらを見ていた。
「ユリカ、タコの足を狙って!」
サンゴの指示を聞き、ユリカはタコゾネスの後ろにある、巨大なタコ足に向かって狙いを定めた。
「ヤ、ヤメロ……!」
タコゾネスが叫ぶが、ユリカは既にトリガーへ手をかけていた。無数の青いインク弾が、タコ足に当たる。タコ足はみるみる膨れ上がると、最後に破裂して消えた。
落ちていく中、ユリカは兵器が放つ強い光を感じていた。タコゾネスの断末魔が聞こえる。次の瞬間、爆音と共に、青インクが降りかかってきた。
「やったな、ユリカちゃん!」
地面に降り立った後で、レイ、ライト、ヒメカ、そしてハヤテが嬉しそうに走ってきた。ユリカは手を振って、そちらに笑いかける。
「本当に、よくやったわ」
サンゴが言うと、ユリカに向かって微笑んだ。ユリカは照れくさくなって、頬を掻いた。
「あっちの方が騒がしいっすね。何かあったのかな……?」
ハヤテが指差した方向には、先程の騒音を聞きつけて外に出てきたであろうイカたちが大勢いた。
「もしかしたら、クローバーちゃんかも……行かなきゃ!」
ユリカは慌てて駆け出す。皆もそれに続いてきた。
「なんだなんだ?」
「またあの黒い子がいるんだってさ……」
「じゃあこの黒いインクは、あの子が……?」
ユリカは周囲のイカたちの話を盗み聴きながら、ムレの間を縫うようにして進んだ。やっとの思いで抜け出すと、そこには巨大な電気プラグのようなものを握ったクローバーが立っていた。
「クローバーちゃん!」
ユリカは呼びかけるが、クローバーの耳には入っていないようだった。周囲のイカたちを見つめ、怯えた様子でいる。ユリカはロビー前での出来事を思い出した。
「ちょっと、キミたち……」
ユリカは説得しようと口を開きかけたが、すぐ近くから「臨時ハイカラライブニュース!」という大きな声がして、目を丸くした。
「ごきげんイカが? ハイカラニュースの時間だよ!」
「こんちゃ~、シオカラーズで~す」
「今日はイカスツリー近辺のビル街に来てまーす!」
すぐ近くのムレの中から、アイドル衣装を着たシオカラーズが姿を現す。イカたちがどよめく中、シオカラーズはクローバーの隣に立って、それぞれ自分が持つマイクを構えた。
「ねぇねぇホタルちゃん、さっきの見た?」
「見た見た。この子が大きなプラグを抜いとったよね」
「そうそう! そしたら、真っ黒な雨が止んでさ……ほんとすごかったよね!」
シオカラーズの話を聞いている内に、ユリカはハッとした。
「キミはオレたちのヒーローだよ!」
「その通りですわ!」
「助けてくれて、ありがとう!」
ユリカのすぐそばで、レイ、ヒメカ、ライトが口々に言った。周囲のざわめきが大きくなる。ムレのイカたちが、にこやかな表情を浮かべ始めた。
「というわけで、ヒーローインタビュ~。街を救った感想をどうぞ」
ホタルがニヤッと笑うと、クローバーにマイクを向けた。
「え、えっと……」
クローバーが赤面しながら、辺りを見回す。ふと、ユリカと目が合った。
「あ、その……! みんなの役に立てて、良かったです。ありがとう……かな?」
クローバーが困ったように笑った。歓声と拍手が巻き起こる。ユリカたちは微笑んだ顔を見合わせた後、クローバーに一際大きな拍手を送った。
星を散りばめた夜空に、白い三日月が浮かんでいた。