top of page

EPISODE:20

瞼の裏を刺す眩しさに耐えられなくなって目を開ける。あまりにも多い白、白、白。おかしいな、さっきまで黒の中にいたはずなのに。
アオイは辺りを見回し、白い空間の先を探そうとした。でも結局ここには何もないし、当然出口なんてありそうにもなかった。諦めてため息をつくと、自分の状態を確認する。イカスカルマスクは首に掛けられ、ブキはおろかインクタンクもない。アタマも元の黄緑色だ。
あーあ。アオイは自嘲気味に笑い、無いはずの天を仰ぐ。あれだけ死なないって言ってたのに、その約束破って本当にここまで来ちゃったか……。戦いのことは途中から覚えていない。今のアオイには傷も無く、最期がどうだったのかも分からない。クロサメのみんなは上手くやってくれればいいけどなぁ。そうして視線を正面に戻した。

ごく、ありふれたように。

遠くに黒い点のような人影が見える。その姿、アタマの色……アオイは息を呑んだ。それから、ゆっくりと震えた唇をほころばせる。ずっと再会を望み続けた、黒の姿に向かって。
「迎えに……来てくれたのか…………?」
聞こえないはずの距離だったのに、思わず言葉が溢れる。すると、相手はそれに反応して、少し身体を揺らした。
「い、今行くからな……!」
アオイはそう言うなり駆け出した。姿に近づく内に、白い空間が色付いていった。淡い青空、足元の緑草、彼女の背後を覆う背の高い、黒い花。アオイは地面を蹴飛ばすようにして走る。鼓動がはち切れそうになっても、痛みさえ感じなかった。
あと少し、そう思った時だった。不意に冷たいような、絡め取られるような感触が脚に伝わってきた。見下ろすと草はなく、代わりに白が波立っている。本来なら恐れるべきものだと本能が言っていたが、アオイ自身は全く溶けていない。構わず先へと進もうとした。今のアオイには、人影しか見えていなかった。
白は確実にせり上がっている。腰まで浸かっても尚、自身が消えるような気配はない。一方で、アオイは既に相手の表情が目視できるところまで来ていた。
「アンタに話したいことが沢山あるんだ」
重くなった脚を前へと運びながら、アオイは再び話しかけ始める。
「あれから、本当に色んなことがあって……!」
目元は暗くなっていて判別しにくいが、口元は以前と変わらない微笑を浮かべている。アオイは目頭が熱くなるのを抑えられなかった。まだ少し距離がある、もっと近くに────。

次の一歩を踏み出そうとして、アオイの身体がガクンと途中で止まった。

後ろへ引いた手首を誰かに握られているようだった。アオイはすぐさま振り向くと、目を見開く。

「カエデ」

一言を発したそのイカは間違いようがない。ずっと忌み嫌ってきた彼はアオイの────否、カエデの手首を掴み、感情の読めない瞳を向けていた。
「……こんなところまで追いかけてくるなんて…………しつこいにも程がある」
カエデはカラストンビを軋ませ、怒りを顕にする。
「離せよ」
強引に腕を引いたが、彼の手に入った力は緩まない。寧ろ強くなっていくようだった。
「それはできない」
彼が初めて表情を変えた。何処か哀れんでいるように見えるその顔を、カエデは腸が煮えくり返るような思いで睨んだ。
「離せ!!」
今度は空いた手を使って解こうとする。それでも、彼の手はてこでも動かない様子で。
「クソッ……何で毎回アンタなんだよ…………」
カエデは彼の手に指を強く食い込ませた。次第に水色のインクが滲み始める。
「何で…………何で……ッ!!」
いつの間にか握っていた拳は、彼の左腕に突き立てるように振り下ろされていた。
「最初からそうだ……アンタの邪魔なんかなければ、アンタがアタシの前に現れなければ────!!」
言葉と同じように、拳も止むことはない。何度も、何度も、何度も、彼に向かって刺す。

「アンタさえいなければ!!」

声が裏返りそうになるほど叫び、一つ一つに憎悪を押し付けた。









どれほど経ったのだろう。…………『今』は全てが曖昧だ。幾つ傷を負わせたのかも、何を叫んだのかも、何もかも。









カエデは息を荒げている。左腕を振り上げる力は残っておらず、何時しか脇に垂れていた。
「頼むから……ほっといてくれよ…………」
今も尚、彼の手は彼女を離すことはなかった。
「シダ……レ………………」
身体を震わせて、懇願する。この瞬間に触れている時が、彼の変わらぬ憂い顔が目に映るのが、喉を締め付けられたように苦しい。
シダレは何も言わない。ただ、カエデを見下ろしている。
一滴(ひとしずく)がカエデの頬を伝った。
「アタシは負けた。その事実があれば満足だろ……? だから、あっちに行かせてくれよ…………」
落ちた雫は波立ちを黒に変えた。カエデはシダレの右腕を掴み、下を向く。幾つもの透明な玉が、黒へ吸い込まれた。
「……それは…………」
暫くして、シダレの声がした。
「クロサメの者たちを前にしても言えることなのか」
その言葉に、カエデはシダレを見上げる。シダレはカエデではなく向こうを見ていたが、すぐに視線を戻してきた。
「お前は彼女を失い、他者の苦しみを知った。だからこそ、平等なセカイを目指そうとしたのではないのか」
既に憂いは消えていた。
「その大望を……本当にここで終わりにしていいのか?」
シダレの問いに、カエデは唇を噛んだ。
「そんなの……アタシが一番嫌に決まってるだろ」
溢れる涙は留まることを知らない。
「でも……もう無理なんだよ。……本当は何処かで分かってた。アタシは間違えてたんだ。誰もが、そして黒インクが認められれば、それだけで良かったはずなのに…………そうはならなかった」
カエデは崩れるように膝をつく。黒い波は何時しか引いていた。
「だから躍起になって力を誇示し続けた。シロツキやアンタ、それからルールを押し付けてきたヤツらを憎み、倒すことでそれを満たそうとした。そしたら、段々何のために戦ってるのかが分からなくなって……気づいた時には、アタシがみんなをセカイの敵にしてしまった……アタシがみんなの居場所を奪ってしまった…………!」
垂れたイカ足は黒く染まっている。この色も、もう二度と…………。
「その上黒インクを使う度、誰もが身体や精神を蝕まれていったのに……アタシはそれすらも認めなかった。……アタシのエゴがみんなを殺したんだ」
カエデは泣きながら笑う。
「どうせ何処かで死んでたんだ。ただ迎えが少し早かっただけで……生きてるだけで誰かを苦しめると分かっているなら、アタシは尚更────」
「だったら」
カエデの言葉を遮って、シダレが言葉を漏らした。それから、目線を合わせるようにしゃがむ。
「余計、勝手に死ぬなんてことは許せない」
シダレの左手は傷ついたまま、カエデの手首を掴み続けている。
「残されていった者はどうなる。お前に救われた者は、クロサメに入ることで生き延びることができた者は、これから一体どうすればいい。お前は皆にそこまでのことをしていながら、置いていくのか?」
「何でアンタがそんなこと言うんだよ。……何も知らないクセに」
カエデは突き放すような口調で言った。ついでにわざと目を逸らす。
「……確かにお前の言う通りだ。俺はお前ほど、クロサメのことについては知らん。だが、お前の素性やクロサメの団員たちについて、探っている内に分かろうとすることは出来た」
シダレが続ける。
「お前は他者のことを想うことができる。……それも、過剰な程に。クロサメもそうして他者を想うことで出来上がっていった。違うか?」
カエデは未だ顔を背けたまま、黙って泣いていた。
「……馬鹿もここまで来ると大概だな」
「…………!」
不意に両肩を強く掴まれる感覚があって、カエデは思わず正面を向いてしまった。
「まだ理解できないのか? クロサメの者は確かに苦しんだ。それでもそこに居続けたのは……少なくともそのような苦しみ以上に、お前やクロサメそのものが必要と感じていたからだろう!」
シダレから放たれた言葉に、カエデは目を見開く。
「お前自身も辛いのかもしれん……誰かが自分のせいで藻掻くところを見るのは。しかし、お前が死ねば必ず誰かが嘆き悲しむことになる。居場所を失った者たちはまた同じことを繰り返し、同じ居場所に有り続けようとするぞ。そうすれば、お前の言っていた苦しみが延々と続く」
「だったら……アタシはどうすれば…………生きてるだけで誰かを苦しめるって分かりきってるのに、どうやって…………!!」
「簡単なことだ」
シダレが僅かに口の端を上げた。そして、再び口を開く。
「お前は、お前を必要としている者のためだけに生きていけばいい。お前にしかできないことを、やればいい」
シダレの瞳に迷いはなかった。
「人は関わりを持てば、その分だけ苦しむ。だがそれを打ち消し、誰かを救うことができるのも同じ関わりだ。そして……誰かを想うことでしか、それは成せない」
解が、繋がっていく。
「他者を本当の意味で救えるのは、お前なんだ」
その瞬間、カエデの脳裏に遠い記憶が蘇った。

「お前にしか、できないんだ」

――――あの時も、馬鹿みたいに真面目くさった顔でアタシに言ってくれた。

あぁ、このヒトは昔から…………何も…………。

カエデは両手で顔を覆うと、嗚咽を漏らしながら、アタマをシダレに預ける。
「こんなアタシでも、いいのかな……?」
指の間から透明な雫が溢れる。
「素直でもないし、勝手だし、独りよがりだけど……それでも、本当に誰かの必要でいて、大丈夫かな?」
暖かな手がカエデのアタマに触れ、彼女を抱く。
「だからこそだ。だが…………お前も、独りで悩むことは無い」
シダレの声がすぐ近くで聞こえた。
「お前にとっても、必要な誰かがいるはずだ。だから……この先、二度と自分だけにならないでくれ────」
何か言っているような気もしたが、カエデには聞こえなかった。その後暫くの間、カエデは泣き続けた。
「…………ったく、いちいち注文ばっかりつけやがって……だからいつまで経ってもクソジジイなんだよ」
やがてシダレの胸からアタマを離すと、頬の辺りを強く擦った。息が詰まることもなくなり、アタマは徐々に元の色へと戻っていく。
「お前も相変わらずだ。もう少し周りを見ろ」
シダレが咎めるようにそう言ったが、口調は柔らかだった。それを聞いて、カエデは思わず口角を上げる。
「アタシがみんなを引っ張らなきゃダメだってこと、途中からすっかり忘れてた…………死んだら恨まれるのも当然だ」
カエデは目元を拭いながら、今度はちゃんと笑ってみせた。
「でも、アンタのおかげで……ようやく色んなモノが見えてきた気がする。セカイを丸ごと変えるなんてことはもう無理かもしれないけど……今度はもっといい形で、みんなが望む場所を作れたらいい、な……」
シダレがそれを聞いて頷いた。
「それでいい」
彼も小さく笑っている。
「お前なら、きっと…………」
カエデはシダレの腕に手を置いた。それを合図に、シダレがゆっくりとカエデの肩から手を離す。それから立ち上がると、カエデは彼女のいる方へと振り向いた。
「ゴメン、やっぱりまだそっちには行けない。やることができちゃったんだ」
カエデは少し俯いてから、彼女の顔を見て話し始める。
「でも、アタシはアンタにずっと感謝してる。今のアタシやクロサメがあるのは……アンタのおかげでもあるから」
もう泣く必要なんてなかった。悲しくないと言ったら嘘になる。けれど、進まなければならない。
「何年かかるか分からないけど……きっと、アンタのことも認めてもらえるように、アタシはこれからも頑張るから。次はちゃんと、誰も苦しめないような方法で。だから…………もう少しの間だけ、待っていてくれないか」
これがせめてもの、恩返しなんだ。
彼女はまだ笑っていた。話を最後まで聞くと、大きく首を縦に振る。「分かった」。カエデにはそう聞こえたような気がした。
「ありがとう」
緩んだ口元はどうしようもなく震えたが、不思議と辛くはなかった。彼女が黒いイカ足をなびかせ、黒い花の中へと歩んでいく。
「また、な…………」
立葵の陰に消えるその姿に、カエデはそっと呟いた。

「……さて、アタシたちも帰るか!」
カエデはシダレの方へ向き直ると、腰に手をあてた。
「……そうだな」
シダレが何処か素っ気なく言った。
相変わらず白は地続きになっているようで、何処が出口かも不明瞭だ。カエデとシダレは背の低い草を踏みしめながら淡々と歩いていく。
「……一つ、お前に謝らなければならないことがある」
暫くの後、シダレが言った。カエデはそれを聞いて首を傾げる。
「謝るって……以前までアタシを殺そうとしてたことか?」
「それもあるが……俺が言いたいのは、もっと根本的な話だ」
二人は歩みを止めた。
「俺は…………皆に隠し続けていたことがあった。思えば、それは他者を理解するに足るものだったはずなのだがな……俺は最後まで、納得はできなかった」
シダレが自身の左腕を胸の前で掴んでいた。
「……『救済』と銘打っておきながら、俺は先ず自分の居場所が無くなることを恐れた。それから戦いが始まって、気づいたことがある……俺の理想は、カエデ、お前の考えるものとは違うし、それどころか崩してしまうかもしれない。そうすれば、俺はまた失敗する。ようやく掴みかけた未来を、この手で葬ることになるかもしれない────」
「……? どういう意味だ?」
カエデはますます分からないという顔をする一方で、シダレはカエデと目を合わせようとすらしなかった。
「簡潔に言えば、そうだな……俺には他者を理解することはできない。それだけだ」
シダレが眉をひそめる。
「だから、こうなるまでお前のことを止められなかったのかもしれない……そもそも、俺がお前のことを少しでも分かろうとすれば、最初からこうはならなかったはずだ。…………そう考えれば、俺はこれで十分な罰を受けたことになる」
「何言ってんだ……? 罰って────」
口を開きかけると、突如シダレがこちらを見た。
そこからは、本当に一瞬のことだった。突然、カエデに駆け寄るシダレ。彼の腕が背を捉えた。カエデはその腕に抱き寄せられる。
「すまない……お前とはもう居られそうにもない。だが、安心しろ」
耳元で声がする。知っているようで知らない、暖かい声だった。
「お前は必ず、俺が生かす」
その時、カエデは初めて気づいた。
すぐ近くまで、黒の波が迫ってきていたことに。
「なっ……ちょっと待て………………っ!」
波から遠ざかるように、カエデの身体が弾かれる。カエデは地面に倒れながらも、シダレの方へと目を向けた。
「シダレ!!」
確かにそう叫ぼうとした。しかし彼の表情を見た途端、言葉は喉につかえた。
そんな…………嘘だろ……………………。
誰かを失うところなんて、二度と見たくなかったのに。
「カエデ」
黒を背にしたまま、彼は笑っていた。心の底から嬉しそうに、目を細めて笑っていた。
「善処しろよ」
黒は獲物を捕らえると、すぐに後方へ引こうとした。カエデは構わず立ち上がり、黒に向かって手を伸ばす。
まだ失ってたまるか。

だって、アイツは…………!

遅れて出てきた言葉を叫びながら、カエデは黒に向かって飛び込んだ。














…………………………。














耳をつんざくような音。続いて、散らばる透明な破片と黒。
カエデは黄緑色に戻っていく自分のイカ足の先を、90度に傾いたセカイから呆然と見つめていた。
右側には地面が押し付けられていて、すぐ近くには……目を閉じている、彼の顔もあった。
カエデは目だけを動かし、自分の手を見た。それは確かに彼の右手の上に重なっていて、僅かに指先を動かすこともできた。
頬に冷たいものが当たる。雨だ。直感的にそう思った。予想通り、次第にその数は増えていき、やがて滴り落ちていく。
何だよ。カエデは彼に視線を戻すと、胸の中で独り呟く。他人のことが分からないとか言っときながら、アンタだってアタシのためにそうしたじゃないか────。
カエデはゆっくりと息を吐くと、もう一度確かめるように手を握る。それから、徐々に重い瞼を下ろしていった。


 

bottom of page