EPISODE:19
黒と水色、二色のインクが飛び交い、地面を染めていく。それは正に、ナワバリバトルの光景そのままだった。
時が戻ることはない。しかし、そこにまだ『あの時』が生きていた。
「お前の全てを以て、『あの時』を――――」
あぁ、分かっている。
これは、終わりに向かう戦いなのだと。
辺りはすっかり闇に包まれた。それでも尚、大勢のインクリングたちは街灯の下で争う。一度切って落とされた幕なのだ、今更止めることなど出来はしない。だが、望まれた戦いを、誰が嘆く必要もなかった。――――その事象が起こるまでは。
「これは……」
シダレは息を呑んだ。目の前に伏せるクロサメのガール。何かしたというわけでもなく、突然苦しみだした彼女は小さな声で呟いていた。
「……いヤ…………シロツキ……――ス…………」
呪いのようにブツブツと同じ言葉を繰り返す。とても立てるような状態ではないというのに、シダレを見るガールの目は殺意に満ち溢れていた。
「リーダー、離れて!」
シロツキの誰かがそう叫び、シダレを後ろへ引っ張る。刹那、ガールがシダレに飛びかかろうとして他のシロツキ数名に取り押さえられた。
「オマエラさえイナけれバ……オマエラサエ!!」
カラストンビを剥き出しにして暴れるガールを、シダレはただ凝視することしかできなかった。
「これで百名以上の暴走を確認しました。インクタンクを外すと容態が落ち着いたことを鑑みますと、原因はおそらく――――」
隣で淡々と話すボーイの声が遠くに聞こえる。シダレは茫然としながら、オキナの話を思い出していた。
――――オレたちが頻繁にチーム活動を始めた頃、カエデはメラニズム個体の子と知り合った。その子は『黒インクしか保有できない体質』が原因で迫害を受けていたんだ。それから少し経ったあと、その子は…………。
「リーダー!」
半ば叫ぶように呼ばれて、ようやく我に返る。眼前のガールは黒インクが抜けきっていた。
「大丈夫ですか? やはりその重傷では……」
「いや、少々考え事をしていただけだ」
ありのままのことを話したが、いざ指摘されると痛みが一層増してくる。まさかこの期に及んで己の身に苛立ちを感じることになろうとは。
「リスポーンデバイスは」
「おそらく機能しています。ですが……距離が遠く少々不安定な上、黒インクはダメージが大きすぎます。リスポーンする前に死に至る可能性が……」
「……そうか」
シダレは眉をひそめ、足元の黒インクを見た。
『こっちよ』
今なら分かる。
初めてアオイと戦い、負けた日。シダレは黒いガールを意識の中に見ていた。彼女が、シダレの手を引いた。
「…………」
インクの中に、彼女の片鱗が残っていたのかもしれない。現実離れした考えではあったが、インクを素体とするインクリングであれば、その可能性もなくはいだろう。
「……お前は――――」
お前は何故、俺を生かした?
お前は本当に革命を望んでいるのか?
インクに問いかけても、答えはなかった。当然だ。シダレは唇を噛む。解は、未だ見つからない。
「リーダー、少しいいですか……」
そうこうしている内に、真っ青な顔のガールがやってきた。どうしてか、アタマのてっぺんからからクツの先まで震えている。
「どうした。何をそんなに怯えて――――」
シダレが言い切る前に、ガールが右の方を恐る恐る指差した。
「あ、あちらで……相手のり、リーダーが……!」
それ以上の説明は不要だった。指し示された方向から、悲鳴と黒インク飛沫が上がる。その中心で立っているのは、間違いなくアオイだった。
「……! 総員、相手リーダーから離れろ!」
「ですが、それでは……!」
話している間にも、恐れおののく声が聞こえてくる。アオイは徐々に離れながら猛威を振るっているようだった。
「撤退ではない」
シダレはハイドラントの持ち手を強く握った。迷いが無いと言えば嘘になる。だが、ここで立ち往生している訳にもいかない。
「俺が行く。あいつは……俺が止める」
シダレは視界にアオイを捉えると、敵陣へ向かってまっすぐ突っ込んだ。「リーダー!!」抑止する叫びもあったが、無謀だということはシダレが一番理解していた。一方で、一刻の猶予も許されていないからこそ、今突き進まなければ次は無いとはっきり感じた。
「っ……!」
小さな黒インク弾が左目付近に当たり、激痛が走る。それでも進まなければならない。進まなければ、救うことはできない……! シダレは片目を閉じたままハイドラントを構え、牽制弾を放とうとした。
「増援隊、放て!!」
トリガーから手を離す寸前だった。指示が聞こえた直後、水色のインクがシダレの周囲を飛んでいくのが見える。シダレはハッとして後ろに目を向けた。そこには大勢のシロツキが。
「突破口を無駄にするな!」
シロツキの者が後に従い、クロサメの攻撃を防いでいく。リーダーの無謀に、組織員たちが加担したのだ。
「……すまない」
シダレはニ度と振り向かず、最前線を駆けていった。命懸けで戦う者たちのためにも、必ずや作戦を成功させてみせる。そして――――。
「カエデ」
俺はお前を、諦めない。
「チッ……」
アオイは舌打ちをした後、背後から襲ってきたイカを一度も見やることなく、肩の上から撃ち抜いた。黒インクが背中や後頭部に当たり、パシャパシャと音を立てる。
「………………」
アオイのすぐ隣にはオキナがいた。今は黒インクを再補充し、3Kスコープを片手に無言で敵を狙う。時折アオイを盗み見るような仕草があったものの、アオイはそれを無視していた。
「面倒だな……」
アオイは敵陣を睨み、思考を巡らせる。シロツキは『救済』の通り、クロサメ側から黒インクを取り上げることでこの戦いを終わらせようとしていた。アオイが一番不愉快に思う手段だ。
ソイツのせいだって言うのかい。アオイはカラストンビを剥き出し、苛立ちを顕にする。アンタたちはまた、何かを虐げて満足するのか。
「アオイ」
様子を見かねたのか、遂にオキナが口を開いた。
「落ち着いて」
彼なりの優しさだったのだろう。しかし、その言葉だけでどうにかなるほど、アオイも柔軟ではなかった。
「クソッ……」
アオイは悪態をつき、視界の隅に捉えたシロツキの方へと向かっていった。
「『救済』の下に!」
豪語するボーイの脳天に、銃口を突きつけた。彼が煽るのは、憎悪と焦燥感。
「大丈夫、誰も見捨てたりはしない」
次に、クロサメの者を説得しようとしていたガールに眼光を向ける。うわごとだ。今更何を言おうが、もう遅い。
「僕たちは、君たちという敵を許す」
隣にいたボーイも、ついでに染めた。許さなくていい。許す存在なんていなくていい。
アタシたちが、『全て』になるのだから。
「ウ……ッ!」
最後のシロツキが弾けた時、急に息苦しくなった。堪らずその場に手をつき、激しく咳き込む。
「アオイ!」
すぐにオキナが駆け寄ってきた。
「インクタンクを……!」
オキナがアオイの肩に手を伸ばす。それを見て、アオイは咄嗟に口元から手を外し、その手でオキナの腕を弾いた。
「よせ! コレは――――」
アオイは上げられた自分の掌を見て、言葉を呑み込んだ。オキナも愕然とした様子でアオイを見ている。
「アオイ……お願いだ……」
吐き出された黒インクがついた腕を取り、オキナが震える声で懇願した。
「これ以上、自分を犠牲にしないで……!」
オキナの願いを聞いたアオイは唇を噛み、顔を伏せる。ほんの少しだけでも、黒インクを怖いと思ってしまった自分が許せなかった。
「黒インクを抜かれて、戦力は減りつつある。状況は……若干の劣勢だ」
オキナが静かに報告する。落ち着け。アオイは自身に言い聞かせる。それから深く息を吸うと、周囲の音に耳を澄ませた。
聞こえてくるのは懇願する声、それに反論する怒号、叫び、そして……怪物のような唸りと、何かを訴えかける悲哀に満ちた言葉。
その時間違いなく、誰かが泣いていた。
アオイは顔を上げ、泣いている誰かに目を向ける。最初はシロツキの誰かだと思った。痛み苦しみ、クロサメを前に絶望するシロツキだと。
「……………………」
しかし、現実は違った。そこにいたのは黒インクを纏った者で、その者は――――目の前で怪物のように成り果てた仲間を見て、涙を流していた。
――――このインクがあれば、誰も苦しむことのないセカイが作れる。
アオイの話を聞いたイカたちが見せた笑顔。そのどれもが、真っ黒に塗り潰されて消えた。
「…………ハッ」
自身でも気づかぬ内に嘲笑が漏れた。アタシは本当に、救いようのないバカだ。
「自分を犠牲に、か……」
それよりよっぽど、アタシは仲間を犠牲にしてしまっていた。黒に固執するあまり、最も大切にすべきものさえも失っていた。
アオイはカラストンビを食いしばる。目に映ったのは、ずっと背いていた悲劇の実態。……後悔と、罪。
「アオイ……?」
フラフラと立ち上がったアオイに、オキナが心配そうな口調で声をかけてきた。
「……オキナ、ゴメンな」
アオイは自分を呪いながら、その言葉を漏らした。
「アンタの言ってくれたことも、約束も……アタシは守れそうにない」
できるだけ無感情に、冷酷に。ここで突き放さなくちゃ、コイツは何処へだってついてきてしまう。
「アタシは……アンタの言うことなんか聞けない」
最後ほど冷たく言い放とうとしたのに、どうしても和らいでしまう。嗚呼、こうやってアタシはいつもムダな期待をさせてしまっていたのだ。嘘が下手なばかりに。
「え……? そんな、ダメだよ……約束を守れないってことは……アオイが……!!」
オキナが目を見開き、アオイの肩を掴む。一方でアオイはそれを払い除け、踵を返した。
「アオイ、行っちゃダメだ!」
オキナが腕を握ってきたが、アオイはそれを振り払った。アイツは優しすぎる。だから、置いていくべきだ。もう二度と、アタシの勝手に付き合わせなんかしない。アタシのせいで、苦しむ誰かがいてはならない。
「カエデ!!」
悲痛な叫びを聞いて、振り返りそうになる。でも、その名前は聞かないことにしているから、ただ前を向いていた。
「オキナ」
最後に、その名を噛み締めるように呼んだ。後方にいる彼の表情は、正面を向くアオイには分からない。
「もし、まだアタシのために何かしたいって言うんだったら……」
約束も、そして仲間でさえも守れなかった最低なアタシを、どうか捨て置いてくれないか。
パァンッ! と何かが弾け飛ぶ音。シダレは咄嗟にそちらを見た。
「相変わらずトロかったな、クソジジイ」
ゲソ先から黒インクをポタポタと垂らしながら、アオイが二メートルほど先の地面に立っていた。
「……貴様…………」
シダレはアオイの脚元に広がる黒インクへと沈んでいくギアを見逃さなかった。ズタズタになったそれは、たった一つの結末を連想させるには十分すぎて。
「敵に何しようが勝手だろ? もっとも、アンタに咎められる筋合いはない」
平然と話すアオイの目には、確かな殺意が込められていた。本気で獲物を狩る、鮫の目。シダレは臆することなく、その目を覗く。
「……これ以上、誰もやらせはしない」
「上等だ。……エリート気取り」
先手を取ったのはアオイだった。格段に上がったスピード、そして正確な射撃。シダレは咄嗟にボールドマーカーネオの脇へと逸れるが、逆に言えばそれだけしか為す術がなかった。
「どうした、さっきの威勢もクソもないじゃないか!」
素早く切り返し、立て続けにブキを向け撃ってくるアオイ。
「優等生ぶってるだけのアンタなんか、すぐに潰してやるよ」
あらゆる方向から弾が襲い、それを跳ね返すハイドラントの胴部が激しい振動を伴う。シダレも反撃をしたいところだが、あまりの弾幕に近距離で身を翻すことに集中するほかない。いずれインク切れが起こるはず。ハイドラントを盾に弾を避けながら、シダレはジッと転機を待とうとした。
「く……っ!」
負傷した部位を弾が掠め、痛みに腕の力が緩む。間もなくして、ハイドラントが後方に弾かれた。同時にアオイの持つボールドマーカーネオがカチカチと鳴り、弾幕がやんだ。
「…………!」
今だ。シダレはチャージしていたインクを放とうと、ハイドラントを渾身の力で引っ張った。
「あぁ、忘れるところだった」
アオイが視界から消える。次の瞬間、シダレの胸元に重い衝撃が走った。
「がっ――――!?」
メリメリと食い込んでいく音、思わずアタマの中が真っ白になるほどの激痛、麻痺。見下ろすと、アオイのトレッキングカスタムがシダレの胸を捉えていた。
「ハコフグ作戦のお返しだよ」
アオイが歪んだ笑みを見せる。シダレはそのまま蹴飛ばされ、仰向けの状態で地面に倒れた。
「ぁぐ……っ!!」
「無様だねぇ、シロツキのリーダー様ぁ!」
アオイの攻撃は止まらない。今度は片足でシダレの胸元を踏ん付け、傷を抉っていく。
「ぐっ……アァ!!」
身をよじる度に背中と地面が擦れ、両側の苦痛と熱がシダレを挟む。シダレはあまりの痛みに耐え兼ねて叫ぼうとしたが、最早声を出すことすら許されなかった。
「下手にリスポーンされても迷惑だ……このまま、死に様を見届けてやる」
話している間、アオイの姿は黒に侵食されていった。「かはっ」踵がシダレの肺を押し潰す。インクが喉を遡り、口に溜まった。
「ア……オ…………イ……」
痛みが痺れに変わり、徐々に息が浅くなっていく。鼓動も弱くなり始めた。震える手でハイドラントに触れようとするも、それに気づいたアオイがシダレの手を撃つ。右手が黒に染まった。
「カ……エ…………――――」
口を開くと、そこからインクが溢れ出す。熱が失せ、身体中から寒気がする。薄れゆくセカイの中にいた彼女は黒い球結膜と黄色い瞳を持ち、まるで悪魔のようだった。
駄目だ。シダレは最後の力を振り絞り、左手でアオイの脚をのけようとする。まだ、終わるわけには…………。
「やめて!!」
悲痛な声が聞こえ、胸にのしかかった重みが無くなる。水色の長いゲソとカーボンローラーが見えた時、シダレは口の中にあったインクを吐き出した。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん!」
シダレの頬に何かが落ち、伝った。呼び声に応えるように、シダレはゆっくりと瞼を開く。
「ヒメ……リ…………」
夜空と三日月を背に、ヒメリは涙を零していた。
「すま、ない………………」
シダレは腕を伸ばしかけたが、ヒメリがそれを制す。
「もういい、もういいの」
ヒメリがそう言うと、シダレのアタマを優しく抱いた。暖かさがシダレの中を流れていく。
「お兄ちゃんは十分頑張った。だから……この先は私たちが――――」
その言葉を合図にしたかのように、地響きと雄叫びが轟いた。顔を僅かに傾けると、アオイへと真っ直ぐに向かっていくシロツキの軍勢が目に映る。刹那、シダレは空気が喉を空回りする感覚に襲われた。
「違、う……」
黒い目の彼女は、自身のアタマから上がる蒸気の中に立っている。
「誰もアオイに……近づくな……!!」
おぞましい幻覚が、シダレのアタマを過ぎった。
腕を伸ばすにしても、もう遅すぎた。見慣れたエンブレムが幾つも重なり、シダレからアオイを隠す。月光にシルエットが浮かび、ヒトとヒトとの境界が消えた。
「総員、一斉射――――」
影の中から鋭い指示が飛ぶ。それから、シロツキの軍勢は瞬く間にして――――黒インクに溶かされて消えた。
『アハハハハハッ!!』
悪夢は現実へと変貌する。黒インクが広がる地の上に立つその姿は、狂気そのもの。カエデもアオイも、そこにはいない。暴走の成れの果ては……あまりにも酷く、哀しいものだった。
「そん、な…………」
ヒメリが震えだす。一気に冷たい空気が周囲を覆った。
「……………………………………………」
シダレはたった今起こったその出来事に、思考が止まった。
俺は結局、誰も守れることすらできなかった。仲間も、彼女も、誰ひとりでさえ。
己の掲げた『救済』とは、何だったのだろう。
その結論が皆を殺めるというなら、俺は…………。
暗闇が、シダレを取り囲んだかのように思えた。
「諦めるな!」
その時、一つの言葉がシダレの耳に届く。
「ここで退けば、今までの全てが泡となるぞ! 『救済』を信じたなら……最後まで貫け!」
更に大きな地鳴り、そして勇猛の叫び。反対側を向くと、シロツキの大軍がこちらへ一直線に駆け出していた。
「我らはシロツキ! 救済組織、シロツキだ!!」
「…………!」
暗闇に、一閃の光が差し込んだ。
シダレは目を見開き、地面に手をついて起き上がる。ヒメリが腕を出し、シダレを支えた。
「俺、は……」
自身の身体に喝を入れるように、一言、一言を紡いでいく。インクが流れ落ちても、痛みが襲ってきても、立つのだ。
「行く末を……道を…………!」
再び忘れてしまうところだった。だが、それを思い出させてくれたのは、またしてもシロツキという組織そのもの。
「二度と、間違えはしない!」
『救済』は此処にある。その事実だけが、シダレを突き動かした。
「シロツキを討て! 『革命』を……リーダーの意志を、今こそ!!」
クロサメ陣営からも声が上がる。しかし、先頭にいる彼女は動こうとすらしなかった。
「革命集団クロサメに、勝利を!!」
『………………』
ふと、佇む彼女の黒い双眼から、透き通った雫がこぼれ落ちた。
「カエデ?」
ヒメリがハッとしたようにその名を呼ぶ。すると、彼女は目を細めて苦しそうな表情をし始めた。
「お兄ちゃん、あのままだとカエデが……!」
ヒメリが両手で口元を覆う。シダレも理解していた。彼女が黒インクの力を限界まで引き出した時点で、時間は殆ど残されていないということ。逆に、『彼女自身』はまだ生きているということ。
彼女が構えた。おそらくクロサメとシロツキの大軍がぶつかり合う前に決着をつけるつもりなのだろう。それはシダレとて同じ考えだった。
「ヒメリ」
シダレは妹へと言葉を投げかける。
「もし、俺があいつを止められなかったら……その時は、お前に指揮を任せる」
「お兄ちゃん……!?」
ヒメリが戸惑いを隠せないという表情を見せた後、震え始めた。
「それって、つまり……」
「ヒメリ――――」
「嫌……そんなのって、無いよ…………」
首を横に振り、ヒメリが泣き始めた。
「どうして……どうしていつもそうやって、一人で何でもやろうとするの……?」
顔を覆い、俯くヒメリ。シダレは思わず、目を逸らしてしまった。
「…………っ……」
自分が逃げてどうする。シダレはかぶりを振ると、ヒメリに向き直った。
「ヒメリ」
シダレは自身の額をヒメリのアタマへ当て、そっと体を寄せた。
「……俺は、今でもあいつやオキナをチームのメンバーだと思っている。お前が思い出させてくれたからこそ、今そう思えている」
でんせつのぼうしが少しずれる。それでもシダレは目を閉じ、ヒメリに話しかけ続けた。
「だから、カエデが苦しみ、行き先を誤ろうとしているのなら……何としても手を差し伸べなければならない。例えこの身が尽きることになっても。それが導き手――――リーダーの役目だと、今ようやく実感しているのだ」
口に出すことで、式を確かなものにしていく。そうだ、俺は……彼女が自身を犠牲にしてまでも立ち向かってきた時点で、『己も』身を挺して受け止めるべきだったのだ。
そして、あの涙。一方で、クロサメの者たちが決意を固めたあの瞬間、彼女は迷うことなく構えを取った時、シダレは悟った。彼女はあの状態になっても尚、仲間を想って涙を流したのだと。
行動の原理、そこから生まれた因果。シダレの中で今まさに、一つの解が弾き出された。
「お兄ちゃん…………」
ヒメリがシダレのフクの裾をギュッと握る。シダレもヒメリのアタマに置いた手に力を込めた。
「ヒメリ、お前は……優しい子だ。シロツキだけでなく、クロサメのことも想えるお前なら……この先も…………」
その先は、喉につかえて言うことができなかった。それでも、ヒメリはゆっくりとアタマを縦に動かしてくれた。
「――――ありがとう」
今度はしっかりと声に出してみせた。シダレはヒメリから離れると、でんせつのぼうしを被りなおす。少しだけ、目頭が熱くなったような気がした。
「……行ってくる」
心残りがあるとすれば、兄として傍にいてやれないことくらいか。しかし、ヒメリは顔を上げていた。兄の後ろをついてくる妹ではない、真っ直ぐな瞳を持つ一人のガールがそこにいた。
「いってらっしゃい。……リーダー」
ヒメリが泣きながらも、シダレに言葉を贈ってくれた。兄ではなく、リーダーとして背中を押してくれたことがどんなに有難いことだったか。シダレは僅かに唇を噛んだが、ヒメリが微笑んだのを見てすぐにやめた。代わりに、精一杯の微笑でヒメリに応えた。
深呼吸の後、クロサメの方へと顔を向ける。彼女はまだ構えを崩さず、その場にいた。
「カエデ――――!」
不意にクロサメ側から声がした。見ると、オキナが軍勢を突っ切って彼女に駆け寄ろうとするところだった。
「……!」
しかし、その容姿と表情を目の前にした途端、脚を止めてしまう。今の彼女は辺りに蒸発したインクがたちこめ、何びとたりとも寄せ付けぬ風貌をしていた。
「オキナ……」
ヒメリが小さく呟く。ふと、オキナが顔を上げ、シダレと目が合った。
「もし、『救済』が本当なら…………」
オキナの言葉を最後まで聞くより先に、シダレは頷いてみせた。オキナが息を呑んだような仕草をする。
「……分かった」
オキナがグッと顎を引いたかと思うと、3Kスコープを突き上げ、空高くチャージ弾を放った。少しして、クロサメの軍勢が暴走者を除いて止まる。
「止まりなさい、シロツキ!」
ヒメリが声を張り上げ、シロツキの軍勢を止める。こちらもやはり一部の者以外は急停止し、辺りに静寂が訪れた。
「……来い、×××――――」
シダレは残る力を黒に侵された右手に込める。空は厚い雲に覆われ、月の光すら届かなくなった。
「俺がお前を導く!」
彼女が唸り声を上げ、力を貯めるように屈んだ。
『ウアアアアアアアッ!!』
鋭い咆哮と気迫。瞬間、彼女がシダレへ向かって怒涛の勢いで突っ込んでくる。
「行くぞ!!」
シダレも彼女を正面から迎えた。フルチャージしたハイドラントを脇に、前へと飛び出す。金色の銃口が僅かな灯りで煌めき、美しい曲線を描いた。
その後一瞬だったはずの場面は、永遠のことのように感じた。
黒インク弾が一発、シダレの胸を穿つ。仰け反ろうにも、慣性がシダレを前方に押し出しそれを遮る。
それでいい。浅い呼吸を感じながら、シダレは尚も風を切る。これで、道は決まった。
シダレはハイドラントから左腕を離す。彼女が無作為に撃ったインク弾が、左肩から指先にかけて必中する。焼けるような感覚と共に、シダレの腕からも蒸気が発生した。これでもまだリスポーンしないのは、シダレ自身がそれを望まなかったから、もしくは既にこのインクが本来のインクという性質より、あまりにもかけ離れていたからかもしれない。いずれにせよシダレは全てを受け入れ、そこにいた。
二つが交わった時、「あ!」と声が上がる。衝突すると思われていた二人。しかし、実際は異なった。
「お前はそうやっていつも、無茶をしすぎる」
――――だから、俺が何度でも止めてやるべきだった。
シダレはクツの踵で勢いを弱めた後、片腕を広げた。もう何発撃たれたかも分からない。喉を逆流するインクを口から流したまま、彼女の背に左腕を回す。彼女のブキが頬を掠めた。
「やっと、此処まで来ることができた」
また一つ、思い出した。彼女に間違いだと告げたあの日。怒りに燃えながらも何処か泣きそうな表情をしている彼女に、本当はそれができたならと何度も思っていた。
『――――……』
彼女は既に両腕を下ろしていた。黒い目から涙は流れ続けていたが、彼女の戦意はシダレの腕の中で完全に消え失せた。
「大丈夫、恐れなくていい。お前には……この先も、大勢の仲間がいてくれるはずだから」
シダレは最後の言葉を口にすると、惜しむように片腕で彼女を抱き寄せる。そして――――右側にあった細長い銃口を、彼女のインクタンクに突き立てた。