EPISODE:18
パキッ。
アスファルト上に転がった小型の無線機を、トレッキングカスタムの靴底が砕く。ヒメリはその瞬間を、膝立ちしたままで見ることしかできなかった。
「ハァ……ハァ…………」
黒インクが的中し、痛む左腕をギュッと掴む。一方、無線機を粉々にしたアオイはヒメリの前でイカスカルマスクを外し、飄々とした表情を顕にした。
「さて……もう十分遊んだろ」
アオイがそう言うと、ボールドマーカーネオの銃口をヒメリに向けた。ヒメリは口を真一文字に結び、アオイを睨みつける。
「……その顔。やっぱり兄妹は似るもんだな」
アオイが皮肉ったが、相変わらず笑うことはなかった。ヒメリは妙な違和感を覚える。ヒメリのスーパーショットとアオイのダイオウイカが交錯した時……間違いなく、あの場面でアオイに変化が起きた。互角だった双方の攻防は、瞬く間にアオイの優勢へと持ち込まれた。
「あぁ……そうだ」
不意にアオイがブキを下ろす。
「この際だ。アンタにも教えてやるよ」
「え…………?」
突然、アオイがヒメリの胸倉を掴んだ。
「丁度同じような状況だった。シロツキが生まれるほんの少し前のことだ……アンタの兄貴はそうやってバカみたいに膝をついたまま、アタシに撃たれたのさ」
目を見開くヒメリの額に、アオイの冷たいブキが当たる。途端にヒメリは、空気が喉を空回りするような感覚に襲われた。
「アンタの兄貴は何の意味もなく、撃たれた。最後なんか無様だったよ……命乞いでもするみたいに、必死になって誰かの名前を呼んで、何一つ抵抗もしなかった」
アオイの視線が突き刺さる。胸が、痛い。
「アンタもそうだろ? 役たたず」
蔑むように見下ろす目。ヒメリの背筋が凍った。兄は――――シダレは、まだ此処にはいない。
「時間稼ぎ? とんだ無駄だったな。今頃ウチの幹部とぶつかり合っているか……そうでなければ死んだか」
最初から、そのつもりだったんだ。ヒメリは目を見開き、眼前の相手に怯える。それじゃあ、私の作戦は……私のせいで、お兄ちゃんが…………!
「お喋りもこれくらいにして……アンタも消えな」
額にグイッとブキを押し付けられる。ヒメリは己の過ちと次に待っているのであろう時を恐れ、涙目になった。
「いや…………やめて……」
泣き続け、何の力にもなれなかった自分と、抗うこともできずに震える今の自分が重なる。
「やめて……!」
私は今度こそ、お兄ちゃんの手助けをするって決めたのに。
トラウマに苛まれ、気づかぬ内に言葉が叫びとなって漏れていた。アオイがそれを聞いた瞬間――――ニヤリと笑った。
「今になって命が惜しいとでも? けどもう遅い――――」
「いいや」
何処からか、待ち焦がれた人の声がした。ヒメリはハッとして空を見上げる。
「俺の前で、誰も死なせはしない」
次の瞬間、ヒメリとアオイの頭上に水色のインク雨が降り注いだ。額に掛かっていた重みから開放されたかと思うと、目の前にマウンテンオリーブを着た水色のボーイが降り立つ。
「お兄ちゃ――――」
「伏せろ!」
シダレが突然振り向き、ヒメリの背中を上から強く押した。言われた通り咄嗟にアタマを下げると、頭上を一発のインク弾が突き抜ける。
「逃がしたのかい。アンタにしては珍しいじゃないか」
「……ごめん」
アオイの傍にはオキナが立っていた。肩に担いだ3Kスコープの銃口がヒメリを睨んでいる。ただし、アタマの色はミントグリーンだ。黒インクは使っていない。
「しかしまぁ……アイツがぶっ倒れるのも時間の問題だねぇ」
アオイがそう言った直後、シダレが地面に片膝をついた。
「っ……!」
「お兄ちゃん!」
シダレが胸元を抑え、苦しそうに呼吸する。そこには黒いシミがべったりと張り付いていた。慌てて背中に手を当てると、そこにも黒インクが。
「ヒメリ……すまない、少し手間取った」
シダレが口から垂れたインクを袖で拭いながら言った。ヒメリは首を横に振る。
「そんなことない。それより、すぐに手当を……!」
ヒメリは震える声でそう言ったが、シダレは頷かなかった。
「大丈夫だ。動けんことはない」
シダレがヒメリの背中に少しだけ触れた後、アオイの方へ顔を向けた。
「……カエデ」
ゆっくりと立ち上がりながら、シダレが話しかける。
「いや……アオイ」
アオイが僅かに眉を動かした。
「俺は……お前の意志を、否定したくない」
「何だ、それ」
アオイが鼻で笑った。
「シロツキは降参でもする気かい?」
「無論、そうではない。寧ろ引けない理由が先ほどできたばかりだ」
シダレが左手をハイドラントから離す。
「……また口先でどうにかしようっていう算段ならごめんだよ」
アオイが口を閉じ、シダレを睨む。
「アタシもクロサメも、そこまで利口じゃあない」
「だろうな。元よりお前は堅苦しい会議や格式張った作戦より、口喧嘩や自由なバトルを好んだ」
シダレが目を細める。対してアオイが微妙に目を開いた。
「埒があかない」
アオイがギリ、とカラストンビを軋ませる。
「俺も解を出しかねているところだ」
シダレが……少しだけ、笑ったように見えた。
「……アタシたちはそろそろ活動限界時間を超え始める。それまでに必ず、アンタたちを潰さなきゃならない」
「しかし、戦力が散らばっている今の状態で、互いに殲滅はほぼ不可能だろう。それが俺の初期の策略だ」
「じゃあ、逆にそれを覆せばいいってわけだ」
「正面衝突程危険かつ無謀な戦術も無いが……こちらもはじめからそれくらいの覚悟と率直さをもって『救済』に当たるべきだった」
双方の主将が左手を上に向かって動かし始めた。
「これだけやっても五分五分にしかならない。広いナワバリを求めること自体が、この戦いでは無駄だったワケだ」
「お前たちがキルを重きに置いているスタイルであるなら、尚更ナワバリバトルには程遠い。形式でいえば、この戦いはガチマッチ系統に近い」
「けど、両方がキルを取り合っている状態なら広さは勿論、場所すら関係なかった。試合は速攻で終わり、どちらが勝者かはすぐにハッキリする。……『救済』とは随分面倒なことをしてくれたねぇ。アンタらがキルを取らずに延長戦へ持ち込むようになった時点で気づくべきだったよ」
「お前が馬鹿で助かったことは否定しない。現にこちらの誘導作戦の間に、複数名のクロサメが黒インクを手放した。我々が掲げる『救済』は、一部で成功を遂げた」
二つの拳が天を突いた。
「逃げ腰な集団に、『革命』を成し遂げるために集まったアタシたちが負けるとでも?」
「勝敗は関係ない。我々――――俺たちは、今度こそより多くの『救済』を実行する。それだけだ」
ヒメリはすぐ近くから波紋を感じた。これは……。
「何が救うだ、無知無能ジジイ」
「何とでも言え、単細胞」
朧月が浮かぶ紫の空を、黒と蒼の流星が覆った。
「――――こうして見れば、見事なものだな」
シダレがアオイたちには聞こえないくらいの小さな声で呟いた。彼の目には蒼ではなく、黒い星が映っていた。
数多の流星はそれぞれアオイ、シダレの後方へと分かれて着地する。一瞬にして黒と蒼二つの軍勢が、巨大なアスファルトの道の上に完成した。
「やることはいたって簡単だ。このまま相手に畳み掛けるだけ。アタシたちクロサメが一番得意な戦法さ」
「今更引くことは無いだろう。だが。敵味方問わず無駄な死は避けろ。それがシロツキにおける、最たる裏切り行為だと心得ておけ」
二つの軍勢から雄叫びがする。それは地面を唸らせ、皆の闘志に火を点けた。
「これで全て終わらせてやる……雨が全てを覆う!」
「止まない雨などない。月は必ず、闇夜を照らす!」
アオイとシダレが言葉を交わす。ヒメリはその姿をただ見ていることしかできなかった。
辺りが静まり返る。ブキのチャージ音が耳鳴りのように聞こえた。
「「戦闘、開始!!」」
遂に、二つの声が重なった。大量のインクが宙を飛び交い、各々の思いを抱えたイカたちが真っ直ぐ突っ込んでいく。ヒメリはその中でも、シダレの姿だけは見逃さなかった。
兄は最後まで、アオイを見ていた。それも睨んでいるのではなく、昔のようにちょっとした話をするような調子で。シダレも思い出していたに違いない。緊迫した状況のはずなのに、シダレは何故だかとても懐かしそうに彼女を眺めていた。可笑しなことかもしれない。でも、その瞬間だけ時が戻ったようだった。そしてその事実が、奇跡の証明でもあった。二人はまだ通じ合える場所にいる、そんな事実が。
お願い、もしカミサマがいるのなら……どうかあの二人を、守ってあげて。ヒメリはカーボンローラーを握り締め、祈りながら前線へと向かった。