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EPISODE:17.5

 黒い星が背後を襲った時、大量のインクが口から吐き出された。身体が動かない。すぐ横で叫び声が聞こえた。
「逃げろ――――」
 もう一度、彼に向かってその言葉を投げようとしたが、空気が上手く喉に入らず、ヒューヒューと音が鳴るだけだった。
「――――オキナ……」
 その名を呼ぶことすら叶わなかった。そう、まるであの時と同じように。

 お前の言うとおりだ。


 俺は、未だ臆病者でしかない。





それは僅かな絶望と、果てしない後悔の記憶。





 今日は組織結成以来、最悪の日だ。今までも散々なことはままあったが、これだけは断言できる。
「もういい。これ以上の報告は不要だ」
 シダレは淡々と述べられる言葉を切るように言った。立て続けに告げられる作戦失敗、の四文字。その殆どがこちらから敵陣に攻撃を仕掛ける奪取作戦であったことが唯一の救いか。しかし、それで事が良い方に進むことは決してない。寧ろ状況が悪くなることは明白だ。
「明日、直ちに戦力確保を行うための人員を手配する。また、今回の作戦で負傷した者たちの治療を急ぐよう、医療班に指示を。人手の維持が最優先だ」
 怪我人に戦闘をさせるつもりはないが、戦闘だけがなすべきことでもない。何より、発足から一ヶ月余りの報復組織というのは本当に小規模なものだったのだ。それこそ、鮫がうっかり見逃してしまうような、極小の群れである。
「リーダー、申し訳ないです……」
「何故お前が謝る。作戦を提示し、指示を出したのは俺だ」
 シダレは腕を組み、気の弱そうなボーイを見た。
「貴様は然るべき場で責任を取り、然るべき場で任務を果たせ。それが此処の組織員としての『在り方』だ」
 シダレの話を聞いて、ボーイが目を丸くする。シダレはため息をつき、会議室の上座から立ち上がった。
「次は……」
 そこまで呟くと、また一つ問題を思い出した。会議中は邪魔になると意識を退けていたが、このまま目を背けているわけにもいかない。迅速な判断を要する問題だ。
 シダレは報告係のボーイに目を向けることもなく、会議室を去った。

「シダレ……あんたさ、狂ってるよ」
 会議室を出て数十分。敵意をむき出しにしてそう言ったミントグリーンのボーイ――――オキナを監禁してから、早二時間が経過しようとしている。シダレはその隣の部屋で、クロサメ組織員への攻撃、及び尋問に立ち会っていた。
「敵の情報を吐かせろ。手段は選ぶな」
 情報源を見下ろして、シダレは冷たく言い放つ。傷だらけの彼が、途端に全身を震わせた。
「ひ、卑劣な――――!」
「黒インクに手を出した貴様がその言葉を使うとは……笑止千万」
 直後、水色のインクが彼を襲う。シダレの両脇に立つイカが撃った弾は、辛うじてキルを取らない範囲にダメージを留めた。
「続けろ」
 やがて、部屋内に叫び声が充満した。構わず攻撃を加えるシロツキの組織員と、それを見て表情ひとつ変えぬ主。どちらかと言えば不愉快なことだ。だが敵に情けをかける等、言語道断。ましてや和解なぞ……。シダレは眉間に皺を寄せた。
 あいつは――――オキナは、敵ではない。だが、敵になろうとしている。不安の芽は摘んでおかなければならない。とはいえ……味方は味方なのだ。
 埒があかない。シダレは軽く唇を噛んだ。それに、先程からどうにも何かが引っかかっている。敵や味方といった概念以前の、もっと別の何かが――――。
「リーダー」
 不意に呼び声がして、我に返る。見ると、先よりも更に傷つき、呻いているクロサメの者がそこにいた。
「あらゆる手段を試行しましたが……どうやら全て無意味に終わったようです。これ以上は相手の応答能力を阻害する可能性があるため、無意味かと」
「……そうか」
 シダレは思考を巡らせつつ、端的に説明したシロツキの組織員を一瞥する。その目は落ち着き払った口調とは裏腹に、何処か狂気的な輝きを放っているようにさえ思えた。
「次はどうしますか。それともこのまま、処分を――――」
「いいや。今日はこれで切り上げる」
 組織員の様子に多少の疑心を覚えながら、ブキを持つ手を制する。
「放っておけ。そうすれば再び機会を待つこともできるだろう。だが……治療は不要だ」
 最後の言葉を発した時、クロサメの者がシダレに目を向ける。僅かに覗いたその瞳には、静かな怒りと憎悪が込められていた。
「……――――――…………」
「リーダー……?」
 何か呟いていたらしい。ようやく口を開いたもう一方の組織員が様子を窺うように聞いてきた。
「……何でもない。下がるぞ」
 やはり好き好んでいられる場所ではないな、とシダレは思った。今までに、何度あの目を見てきただろう。その度に決まって脳内をよぎるのは、忌々しい笑みと黒い眼。それから……。
野暮だな。シダレは無意識にカラストンビを鳴らす。それらは全て、とうの昔に断絶したのだから。
シダレは彼から目を背けると、扉の方へ踵を返した。

「それでは、失礼します」
 そう言って、組織員の一人がその場を後にした。クロサメの者を爛々とした目で見ていた、あのボーイだ。
「…………………………」
 シダレは黙ったまま、遠のいてく背を観察していた。どうしてか、警戒心が抜けない。指示には忠実だが、何処か不安定さを感じさせる態度……。念のため、彼はこの仕事から外すべきかもしれない。
「――――馬鹿なんですよ、アイツ」
 不意に話しかけられ、シダレはそちらを向いた。
「またすぐに戦闘狂を剥き出しにして……彼の代わりに、ボクから謝らせてください」
「お前に謝られるようなことを、あいつがした覚えは無いが」
「そうですか? でもリーダーがさっき彼を見た時……あまりいい顔をしてなかったので」
 別の組織員のボーイに言われ、シダレは僅かに眉をひそめた。それを見て、ボーイが微笑する。
「おっと……失礼しました。それやこれやはさておき、今日は相当お疲れでしょう? 後はボクがやっておきますから……リーダーは先に暇を」
 ボーイが少し笑ったまま、シダレに道を開けるように脇へ逸れた。しかし、シダレはボーイの後ろ――――中にオキナがいる扉の方へと目を向ける。
「リーダー……?」
 ボーイが首を傾げた。
「……! あぁ、そうだな……お前に任せる」
 シダレはそう言った後、目を瞑る。どうやらボーイの言ったことは本当のようだ。一度、休む必要がある。
「問題が発生した場合は直ちに連絡を」
 シダレの言葉に、ボーイが頷く。そうして、シダレは白く長い通路を歩いていった。

 薄暗い部屋の中。高いところに取り付けられた小さな窓から、夕日が差し込んでいる。シダレは一人、床にあぐらをかいてブキの調整をしていた。カチャカチャと金属が擦れる。ドライバーの先で弾くと、ピン、と音を立てて一本のネジが外れた。結局、あの場で決断することはできなかった。シダレは取り外した赤い部品を指で摘み、目の前に持ってくる。オキナを敵として処理すべきか、味方として置いておくべきか。時間は刻一刻と過ぎていくというのに、何故こうも躊躇しているのか。シダレは自分自身に苛立ちを覚え、部品を持っていた手をやや乱雑に下ろした。
 ……本音を漏らせば、決断が遅れている理由はある程度察しがついていた。しかし……シダレは額に片手を当て、ギュッと目を閉じる。自身がアタマに留めている、オキナという存在、共に過ごした記憶。これは、これだけは加算してはならないものだ。信じるだとか、絆だとか、そんな綺麗事で済まされる話ではない。シダレも重々承知していた。だからこそ、己の中にあるそれによって思考に抑制がかかっていることが、何よりも許せなかった。
 敵と味方。相反する二つの枠のどちらかに当てはめる。ただそれだけのことなのだ。本当に、それだけの…………。

――――――――――――――――――――。

 陽炎揺れるアスファルト、その向こう。未だ賑わうイカスツリーの下に、彼らはいた。
「ほらほら、君がリーダーじゃないか。それにもう一人見つけてこなきゃ、四人で一チームのナワバリバトルはできないよ?」
 あっはっは、まぁ頑張れ! 等というこいつは本当に訳が分からない。誰だ、チームを作りたいからと俺やヒメリを勧誘した奴は。とはいえ、ナワバリバトルができないのは困る。シダレはヤコメッシュを被りなおすと、眉間に皺を寄せたまま、傍を通ったわかばTのボーイに声をかけた。
「あんた、チームに入る気はないか?」
「えっ!? あ、あの……ぼく、今日ハイカラシティに来たばかりでその……よく分からないんですけど……」
ボーイが頬を掻きながら言う。至極当たり前の反応だ。シダレでも見知らぬ土地で早々に、それも見ず知らずのイカに話しかけられたボーイの気持ちくらいは察せた。「折角だし、連れてきてもらうなら初心者がいいかな、うん!」こちらの気も知らないで、いけしゃあしゃあと。どうもあいつの気まぐれさにはついていけん。ビギナーの頃に出会った時から、あの救いようもない楽観性に気づいていれば良かった。
とにかく、とにかくだ。シダレはボーイに人手が足りていないという事情を説明しつつ、アタマはその先のことを考えていた。初心者など微小の潜在能力があるかどうか程度で、結果的には団栗の背比べにしかならない。だったら適当に出くわした奴を捕まえて、不向きであれば追い出せばいい。勝手なことかもしれないが、不要なものは早々に弾いたほうが、双方の今後に支障を来さなくて済むだろう。
「わ、分かりました……ぼくで良いなら、協力します」
 小柄なボーイがおどおどした様子で頷く。にしても本当に背が低い。おそらくヒメリよりも低身長だ。これでヒト型に形態変化できているのだから、少々驚きである。
「来い。メンバーがあちらで待っている」
 シダレは顎で方向を示し、踵を返した。ボーイが慌てて後ろをついてくる。人ごみをかき分けるように歩いていると、あいつがこちらに気づいて、無邪気に笑った。
「うわぁ、ゴンズイ並みにちっちゃい子だね! 君、名前は?」
 キラキラした目で見ている一方、ボーイは「ちっちゃい」という言葉を聞いた途端に苦笑した。
「あ、ぼくは……オキナ、です。よろしくお願いします……」
 オキナと名乗ったボーイは、困ったような顔を浮かべてシダレを見る。シダレはため息を吐いただけで、何も言わなかった。
「あれ、もしかして気にしてた? だったらごめんね! でもさ、シダ・・だって最初は君くらい小さかったんだよ――――?」
「雑談はそこまでだ。早速、チームとして活動を始める。待機室へ向かうぞ」
 シダレはヒメリの手を引き、イカスツリーの自動ドアへと向かう。残る二人も何だかんだそれに従った。
思えば、あの選択は正解だったのかもしれない。それからのオキナは見事なまでに順応し、実力を伸ばしていった。
「いやぁ、すごいね。大当たり引いたんじゃない?」
 オキナヒメリと共にナワバリバトルを楽しんでいる様子を観戦しながら、シダレは言うところのあいつ・・・と話をしていた。
「あんたが教え込んでいるのもあるだろう」
「ん? 僕は何もしてないよ」
「何故誤魔化す必要が――――」
「だから、本当に何もしてないってば。確かに、君やヒメリには色々と教えたさ。でも……今回は僕の出る幕じゃない。だって、オキナは君が連れてきた。そうだろう?」
 そう言われ、シダレは今一度目下のステージを眺める。丁度ヒメリとオキナがハイタッチをして、敵陣へと攻め込んでいくところだった。
「ああいう子でもね、何時かは悩む時が来る。いや、ひょっとしたらもう悩み始めてるかも……? そういう時、リーダーさんはどうするのかな?」
 問いかけた後、目の前でクスクスと笑い出すあいつ。まるでこの先を見越しているようなその言い回しに、シダレは僅かに眉をひそめた。
「……あんたも随分な策士だな」
 シダレはそれだけ言い残し、その場を立ち去る。あいつはついてくる事もなかった。
 皮肉な事に、その時は随分と早く訪れた。
「オレ……もっと上手くなりたい。早く皆に追いつきたいんだ」
 悪天候ということもあって、ロビー内で待機していたある日。オキナがそんなことをシダレに漏らしてきた。オキナのチームに対する想いは誰よりも強いのだと、シダレもこの頃から気づいていた。そして自分がどうするべきかについても、理解していた。
「……そういうことなら、手伝えんこともない。お前が良ければ、の話だが」
 シダレは素っ気ない口調でオキナに提案した。
「本当!? あ、でも……シダレはそれでいいの?」
「気にするな。時間を割く余裕くらいはある」
 シダレが言うと、不安そうなオキナの表情がパッと晴れる。意外にもすんなりと受け入れたらしい。
「それならよかった……ありがとう、シダレ!」
 そうして、特訓は始まった。オキナは全力で事に当たった。シダレもそれに応えるため、自身の持つ知識や技術を駆使してあらゆることをオキナに教えた。久しく手のマメを潰して家に帰ると、ヒメリに散々叱られた、なんてこともあった。だが、シダレはオキナ同様、それほどに必死だったのだ。
 やがて、成果は目に見える形で現れた。
「シダレ、あのさ……オレ、ようやくウデマエが――――」
 興奮を抑えられない、という面持ちでロビーから飛び出してきたオキナを、シダレは少し笑って迎えた。
「ああ。良かったな」
 はしゃぐオキナのアタマに手を置く。
「よくやった」
シダレは心から、その言葉を贈った。オキナが目を丸くした後、嬉しそうに笑った。
「よーし、今日はお祝いだ! 皆で何処か食べに行こう! 勿論、リーダーの奢りで!」
 勝手に決められたことに思わずため息を漏らすが、オキナの表情を見ると、不思議と悪い気はしなかった。夕日に背を押され、四人は広場の出口へと歩き始めた。

 本当に何でもない、ある日々のことだった。





 くぐもったざわめき声が聞こえる。シダレはゆっくりと目を開き、ドアの方を見た。
「……………………」
 時間は、と思い顔を上げると、未だ窓から紅い光が差し込んでいる。おそらく、作戦から帰還した組織員たちが広間で屯しているのだろう。
 分かっている。シダレは自分に言い聞かせた。記憶と相談しても、現在に結論は見出せない。だとしたら……はじめから現在に問うべきだったか。シダレは深く息を吸うと、部品をその場に置いて立ち上がる。そして、帰還後の指示を下すべくドアノブへと手をかけた。
「ご苦労。今日はもう休め。明日以降の作戦は早朝に報せるよう手配しておく」
 組織員たちが返事をすると、すぐに何処かへと散っていった。彼らもある意味、シダレが率いるチームのメンバーである。では仮に、彼らの中の誰かが裏切りを行った場合、リーダーはどういった処置をする? シダレは途中まで考え、首を振った。この例題は現実的だ。非常に現実的で、残酷だ。
 これ以上、ここで足踏みをしているわけにもいかない。シダレは長く息を吐くと、オキナのいる部屋へと向かって一歩を踏み出した。

 長く狭い白通路。その壁に幾つかの扉が設置されている。俗に言う拷問室へと続く扉だ。シダレは一番手前の扉に差し掛かると、脚を止めた。
 具体的な結論は未だ出ていない。しかし、来たからには決断するつもりだ。そのためにも、オキナの様子、そして心境を知る。考えを改めているのなら此処から出せばいい。もし、そうでないのなら……こちらも容赦はしない。
 シダレは扉の鍵穴に鍵を差し込もうとした。僅かな躊躇がほんの少しの間、腕の動きを止める。シダレは焦燥から、カラストンビを覗かせた。優柔不断にも程がある。一組織の当主がこんなことで務まるか。シダレは自分に喝を入れると、ようやく鍵を回すことができた。カチャ、という留め金が外れる音が、静寂を突き破った。
 再び躊躇いがアタマを過ぎるとも限らない。であれば、考える暇すらも今は不要だ。シダレは重い扉に両掌をつけると、即座に押し開いた。

 その後はいつも通りオキナ、と呼びかけるだけのはずだった。

 吐きたくなるようなインクの濃いニオイが鼻をつく。ほの暗い部屋の床や壁にこびりついた水色とミントグリーン。その中心に、文字通りぐしゃぐしゃになって蹲っているボーイ――――オキナがいた。
 シダレは扉を開けたまま、その場に立ち尽くした。情報の処理が追いつかない。これは……これは、どういうことだ。次第に鼓動が激しさを増し、息苦しくなった。何故、何故……既に――――?
 その時、オキナの手が僅かに動き、ゆっくりと顔を上げる。シダレは金縛りに遭ったように、その場から動けなくなった。
「どう……して…………?」
 ズル、ズルと引きずる音。生ける屍にも見紛う姿で、オキナがシダレに這い寄ってくる。
「なんで……こんな…………」
 オキナがシダレのフクにしがみつき、膝立ちの姿勢でシダレを見上げた。やめてくれ。絶望が覗くその瞳を目にして、シダレは心の中で叫んだ。俺に、その目を、向けないでくれ。
「あ……あア…………」
 オキナが喘ぐように声を漏らす。途端に瞳の中の絶望は、果てしない憎悪へと姿を変える。シダレが最も恐れ、拒むものに。
つんざくような悲鳴混じりの叫び。それが表すのは嘆きではなく怒りか。シダレはオキナの声に、表情に、手にこもった力に、苛まれた。「アンタのことが、大ッ嫌いだ!」。彼女とオキナが一瞬、空想の中で重なる。息ができない。違う、違う。俺は……!
「っ!!」
耐え切れず、シダレはオキナを突き飛ばした。ぐしゃり。オキナは地面に転がり、部屋には沈黙が訪れる。シダレは弾いた手を上げたまま、暫くオキナに視線を向けていた。口の中はインクの味で満ち、心臓はバクバクと音が聞こえそうな程に胸を叩いていた。
荒い呼吸を整えつつ、シダレは額の汗を袖で拭った。インクのニオイは尚、部屋内に充満していて目眩を誘うようだ。吐き気も収まらない。正直に言えば、今すぐに目を背けたかった。だが……シダレの中に残った、最後の理性がそれを止める。
「…………………………」
 オキナはまだ、此処にいた。いや、此処にいるのだ。
 シダレは一度上げた手を、今度は差し出すようにして上げかけた。
 ビイイイイイイイイイッ!!
 しかし、それは鋭い警鐘によって遮られる。シダレはハッとして、扉の方へ顔を向けてしまった。
『リーダー、クロサメによる拠点襲撃です! 既に防衛陣を破られ、侵入を許している模様――――』
「!? すぐにそちらへ行く。また、総員へ迎撃指示を――――!」
 通信機に話しかけるシダレの後ろで、重厚な扉が音を立てて閉じた。
その後、アオイ率いるクロサメは拷問室に囚われていた者を連れ出し、早急に退散した。正面の防衛突破はそのためのカモフラージュだったのだ。そのことに気づき、引き返したシダレが見たのは……もぬけの殻になった部屋だった。彼女たちは、オキナをも連れて行ってしまった。おそらく、ニ度と帰ることはない。
「……組織員一名、消息不明。捜索の必要はない」
 シダレはそれだけ報告し、ハイドラントを自身の右側に担ぐ。
「暫くは俺も前線を張る。これ以上の侵攻は我らが組織の壊滅に繋がると思え」
 その時のシダレにとって、迷いを捨てることはいとも簡単なことだった。当然といえばそうなのかもしれない。彼はもう、此処にはいないのだから。迷いが彼を遠ざけたのだから。

 心に穴が空いたというのはこのことだろう。空白には、ただ一つ――――後悔が残っただけだ。





 大海の如く、底知れぬ後悔が………………。










 うっすらと目を開くと、紫がかった夕空が視界に広がった。妙に息がつかえる。それに、背中が痛い。不意に襲った激痛に、ほんの少しだけ指先を動かした。
「――――目が覚めた?」
 その声を聞いて、シダレは咄嗟に起き上がる。すると、胸元にも痛みが走った。
「……っ!」
 胸を抑え、こみ上げてきたものを咳と共に地面へ吐き出す。見ると、少量のインクが飛沫模様を描いていた。
「そんなに焦らなくても大丈夫だよ。今は……オレもあんたと戦う気はない」
 右側を見やると、オキナがすぐそこに座していた。シダレに顔を向けることもなく、正面を見ている。
「………………」
 シダレは視線を落とし、黒インクがこびりついた自分の手に注目した。
「オレがここにいる理由は唯一つ。……真実が、知りたいんだ」
 長い沈黙の後、オキナがぽつりと呟いた。シダレはオキナの方を向く。
「それは――――」
 シダレが口を開くと、オキナが目を細めた。そこにあるのは嫌悪や拒絶ではなく、懇願。少なくとも、シダレにはそう見えた。
「……分かった」
 シダレは了承し、ゆっくりとあの日のことを語り始めた。ありのままの事実。それはオキナにとって、何と都合よく聞こえたことだろう。それでも、シダレは真実だけを口にした。
「――――これが、俺の知る全てだ」
 シダレはその一言で締めくくった。
「…………そっか」
 オキナが素っ気ない返事をする。若干震えているような気がした。
「じゃああんたは……本当に何も……」
「それは違う」
 シダレは微かに首を振った。
「俺はお前をあそこへ閉じ込めた。そして、脚を踏み入れるまでは……同様の仕打ちも必要になる可能性があると考えていた」
 オキナが驚いたようにシダレを見た。
「あの時、もしお前が無事な状態でいたとしても、俺がその仕打ちを行っていたかもしれない。だからこそ、俺はその選択自体を誤りだとは思っていない。少なくとも当時は、という意味だが」
 シダレは瞼を伏せた。
「……でも、あんたはさっきもオレを庇った」
 オキナが言う。
「それに、その言い方……あんたはその選択が正解とも思っていない。そうだろ?」
 オキナの問いかけに、シダレは頷くしかなかった。
「だが、俺は選択することができなかった……その迷いが、あの結果でもある」
 迷わなければ、後悔もなかっただろう。例え結末が、どうであろうとも。シダレは出かけた台詞を呑み込んだ。
「……もう一つ、真実を知りたいことがある」
 オキナがリストバンドをいじりだした。
「アオイ――――いや、当時はカエデだったかもしれない。とにかく、クロサメ結成後、オレとあんたが彼女を追ったときのことだ。あんたは彼女と邂逅して……それから、何があった?」
 オキナの問いに、シダレは目を逸らす。
「……はじめは、戻ってくるようにと説得を持ちかけた。だが…………」
 記憶がフラッシュバックする。シダレは顔をしかめた。
「最終的に話し合いは破綻、戦闘が始まった。そこで俺が負けた。……それだけだ」
 シダレはそこまで言い終えると、再び胸を抑える。少しダメージを受けすぎたか。行動不能では無いものの、これ以上の被弾は命に関わるだろう。それに……オキナがまた攻撃を仕掛けるとも限らない。
「…………」
 不意にオキナが立ち上がり、ブキが置いてある所へと歩いていく。そして、3Kスコープを手にとった。シダレは胃に冷水が流れ込むような感覚を味わった。
「……真実を聞いたからと言って、オレはあんたを信用するわけじゃない。実際、あんたは少し前まで『報復』を掲げていた」
 しかし、オキナは背を向けたまま話し始めた。
「でも……話を聞いて、見えてきたことあった。それに、負けは負けだ。オレはもう、あんたに手出しする権利はない。その上、奇襲から身を護られたとなれば借りができる。だから、今度はオレが話す番だ」
 オキナが踵を返した。その目に戦意や殺意は感じられない。
「あんたが知りたがっていたこと――――アオイがクロサメに、そして黒インクに固執する理由。彼女は――――」
 その時、シダレの耳に通信連絡が飛び込んできた。
『リーダー、急いだ方がいいかもしれません……ヒメリさんとの通信が途絶えました』
「何……!?」
 シダレは瞬時に接続を切り替え、ヒメリの名を呼んだ。しかし、報告通り返事は一切返ってこなかった。
「……っ! もう一刻の猶予もない、ということか……」
 シダレは眉をひそめる。そして、その場から立ち上がった。
「オキナ、お前はこのあと……アオイの元へ向かうのか」
 オキナが少し間を空けて頷いた。
「なら、こちらとしても好都合だ……ここから二人がいる位置までは距離がある。その話は、跳躍中に聞かせてくれないか」
「あんたがそう言うなら、そうする。だけど……時間に限りがあることに変わりはないよ」
「端的で構わない。俺は……選ぶためではなく、救うために此処にいる。少しでも彼女に手を近づけるためにも……その手がかりとなる情報さえあれば、それで構わん」
 オキナが僅かに目を見開いた。
「……分かった。なるべく簡潔に詳細を話すよ。そこから何を掴むかは……あんた次第だ」
 シダレはオキナをまっすぐ見つめる。オキナもまた、シダレの瞳を見ていた。


 アオイ、ごめん。シダレに経緯を話す中、オキナは何処か罪悪感を覚えていた。今のオレは、また何を信じればいいのか分からなくなっているのかもしれない。
 しかし一方で、可能性に賭けている自分がいることにもオキナは気づいていた。アオイはこのままいけば、未来を捨てることになる。もし、その未来を護れる道があるとしたら……。

 身勝手なことだ。でも……これだって、ある意味彼女のためなんだ。



 それに……彼の話を聞いて、後悔しかけてしまったんだ。





あの時……もう少し、もう少しだけ話が出来ていればと。






 ひょっとしたら、お互いを更に理解し合える道があったのではないかと。






「やれやれ。どうして肝心な時に邪魔が入るのかな」
とある廃ビルの屋上。夕日を受けて紅く輝くハイドラントを担いだボーイが、ため息をついた。
「それはあの2人も同じだと思うけどね」
ボーイの首筋には、ピンク色のインクを纏ったフデ先が突きつけられている。
「どういうつもりだい? ……シロツキさん」
「そういうキミは、一体誰なんだ? 部外者さん」
双方が問いかける。沈黙の後、先に口を開いたのはハイドラント使いのボーイだった。
「……ハハッ。その様子だと先に話せってことか。見ての通り、粛清しようとしたのさ。裏切り者をね」
ボーイはシロツキのエンブレムが刻まれたフードを被っているが、背負ったインクタンクは真っ黒なインクで満ちていた。
「そうかい? 僕の考えだと、君にとってあの状況は都合が悪かっただけなんじゃないかなぁ」
長いピンク色のイカ足を後ろで結ったイカが言う。声からしてガールのようだ。
「だって君が撃った時、オキナはバトルに負けていたようなものだから……それにシロツキの君が味方の、ましてやリーダーの目の前で黒インクに手を出すなんて、余程慌てていたみたいだね。……オキナが生きていたら、そんなに困ることでもあるのかい?」
「それが分かったとして……キミはボクをどうするつもり?」
ボーイが振り向いた。
「捕らえるか……はたまた、殺すかい?」
「君と一緒にされたら困るよ。悪いけど、僕は何処までも部外者であり続けるさ」
ガールは微笑を浮かべ、小首を傾げる。
「でも、この場においては君も部外者だ。あれは2人の問題だ。それを力でねじ伏せようとするなら……同じ部外者同士、僕にも考えがある」
ガールがパブロを下ろした。
「ボクが部外者? 笑わせないでくれよ」
ボーイは口元を三日月型に歪める。その目は月色を帯びていた。
「あの馬鹿な裏切り者に『報復』した張本人が、キミと同じ蚊帳の外にいる存在だって?」
背筋が凍るような笑みを見ても、ガールは笑ったままだった。
「そうか。それはそれでホッとしたよ……彼がそんなことをするなんて、僕もにわかには信じられなかったから」
ガールの言葉を聞いて、ボーイが冷たい笑い声を発した。
「なるほど、その点の言及、そしてボク自身からの証言……キミは最初からそれが目的だったか。……まぁいい。キミは関わらないという賢明な判断をしたみたいだからね。ボクも闇雲に事を構える気は無いし」
ボーイが柵の上に乗り、ガールを見下ろした。
「ここは引かせてもらうよ。様子を見ている限り、ボクが想定していた最悪の事態は免れることができそうだ。……あぁそうだ。キミは何者なのか、それだけ聞いておきたいんだけど」
ボーイの手がハイドラントのトリガーに触れる。ガールが真剣な表情に戻った。
「僕は……彼らを他の人よりは知っている。それだけだ」
ガールが歩み寄り、ボーイを仰ぐ。
「僕からも、もう一つだけ問おう……君はシロツキの、何なんだ?」
ガールの問いに、ボーイが不敵な笑みを浮かべる。
「ボクはシロツキの『真』に従う者。ただそれだけさ」
「あぁ、僕の問い方が悪かったね。だって君は────」
ガールがパブロで地面を軽く擦った。
「────そのインクに触れた時点で、シロツキじゃない。だとすれば、答えは見えきっているね……?」
「いいや、それは無いよ」
ハイドラントが唸り声を上げ始める。
「ボクはこのインクを弱者に与えて粋がらせるようなことはしない。使うとすればもっと崇高な……そう、キミには到底理解できないような目的のために。もはやシロツキの名前さえ、ボクにとっては仮初でしかない……『真』は、その上を行くものなのさ」
そう言った途端、ボーイが懐からスプラッシュボムを取り出してガールへと投げつけた。ガールはそれを後方に飛び退いて避ける。大きな炸裂音と共に、屋上の中央に広がる黒い飛沫。ガールがパブロで辺りをピンク色に塗り替えた時には既に、ボーイの姿は跡形もなく消えていた。
「さっき下で倒れていたクロサメ……黒インクは彼から奪ったのか」
ガールは柵の方へ駆け寄ると、すぐ下の道路へ目を落とす。相手はインク痕すら残さず、この場から去ったようだった。
「ふぅ……厄介なことになったかもなぁ。でも、二人の方は何とかなったみたいだね」
ガールは更に正面の奥の方へと視線を向けながら呟く。丁度、水色とミントグリーンのイカが弧を描くようにして飛び去るのが見えた。
「ヒメリは見なかったけど……まぁ、元気だよね。でないとあんなに元気にしてられないよ……『お兄ちゃん』の方が」
ガールは再び口元を緩めた。
「最初は驚いたさ。君たちがこの戦争に、ましてや一人は組織の首謀者として関わっているなんて、思ってもみなかったから」
夕日がガールの顔を照らし出す。その瞳は桃色に輝いていた。
「きっと、それほど君は相手のことを思って……って言っても、君には通用しないよね。相変わらず鈍感だろうし」
ガールは一人笑って、夕日をまっすぐ見つめた。
「何にせよ、僕は君にとっての幸運を祈るよ。…………シダ・・」
それだけ言うと、ガールは柵から手を離す。そして屋上にヒールの音を響かせながら、さびれた階段の方へと歩いていった。

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