EPISODE:17
思い出の中で、何度も見てきた背中が遠のいていく。あの時の自分はその背中に声をかけることも、手を伸ばすこともできやしなかった。憧れた姿。初めて目にした時から、ずっと熱が冷めやまない。
彼女の笑った顔が強く、そして儚く────。
「やめてくれ!!」
懇願するような声。続いて発せられた、つんざくような叫びに思わず飛び上がった。オキナは我に返ると途端に辺りを見回す。薄暗い通路は依然として白い空間を携えていた。
「……少し間を開けた後、再度尋問を行う。それまではそこに放っておけ」
くぐもったような指示が聞こえると、返事らしい声もする。間もなくして、視界隅の鉄製の白いドアが重そうに動き、通路側に開いた。
「シダレ…………あの………………」
オキナはおどおどしつつ、部屋内から出てきた長身のボーイに話しかけた。
「……何だ。簡潔に話せ」
シダレが鋭い眼光でオキナを見下ろす。彼が身につけているマウンテンオリーブはあちこちにインク────それも彼の水色のインクではなく、紫色────が付着していて、オキナは思わず生唾を飲み込んだ。
「え、えっと…………ちょっと話したいことがあるんだ。その……オレとシダレ、2人だけで」
インクの染みから目を離し、半ばどもりながら要件を伝える。シダレが視線だけ、扉の方に移した。
「分かった。この後すぐ、俺の部屋に来い」
シダレはそれだけ言うと、オキナのすぐ横を抜ける。直後、扉が閉まる鈍い音。やがて他のメンバーたちもシダレ同様、オキナとすれ違う形で何処かへと去っていった。
オキナは息を吐くと、扉の真横の壁にもたれかかる。胃が痛いというのはまさしくこの事だ。ヒメリは今までと何ら変わりはない(強いて言えばシダレを『お兄ちゃん』と呼ばなくなったことがあるものの、これもきっと本人の意思ではないだろう)。だが、ここ最近のシダレは人が違うかのようだった。少なくとも昔のままであれば、例え敵でも無闇に傷つけるようなことはしなかったはずだ。オキナは扉の隙間から部屋の中の様子を窺ったが、途端に顔を背ける。身体中に傷を負って頭を垂れるクロサメの者は、死んでいるようにさえ見えた。
「変わった、か…………」
そういえば彼女もそうだった。変わったから、今は敵と見なして戦っている。
「でもオレは……『報復』なんて、したくない」
正直、シロツキが結成されたその時からずっとそう思っていた。オキナは再び壁に寄りかかると、たこTの裾を握る。だってオレ、恨むような人なんかいないし。取り返すことができたら、それで十分だから。
そもそも何故、シダレはカエデを倒そうとしているのか。きっかけはおそらく、2人でカエデを説得しに行った時だとは思う。でも……シダレは細かいことについては何も言わなかったし、オキナも言及することはなかった。ヒメリだったら……何か知っているのかもしれない。けれども、彼女はシダレの妹だ。あまり余計なことを話すのも良くないかもしれない。
「…………あ」
気付かぬ内に漏れた声。それから、バックワードキャップを被ったアタマを抱えて、その場に座り込む。
「ハハ…………そうか」
オレも変わっちゃったんだ。仲間を疑うなんて、どうかしている。
白い腕の中、オキナの口は嘲笑を見せまいと歪んでいた。
約束通り、オキナは取り急ぎでシダレの部屋を訪れた。いつもは平然と出入りしているドアが、今のオキナには重く巨大なものに思えた。
シダレは自分の話を受け入れてくれるだろうか。不安と緊張が胸を押し潰しているようだった。もしまた自分の『我が儘』が通せるのなら…………。過去の日のことを思い出し、自身を説得しながら、オキナは恐る恐る手を伸ばす。
「入れ」
ノックをするとすぐに返事がした。余程暇が無いらしい。オキナもわざと時間を延ばすようなことはしたくないと思っていたので、内心ホッとする。
「うん……失礼するね」
オキナはそそくさと扉を閉め直し、部屋の真ん中に座ってブキのメンテナンスをしているシダレの方へと歩んでいった。
「それで、話は」
「そ、そうだね。と言っても、実際はちょっとした提案というか……」
そこまで言い、シダレに目を向ける。未だにハイドラントの部品を磨いていて、オキナの方は見向きもしなかった。
「……急いでるみたいだし、単刀直入に言うよ」
オキナは一度深呼吸をしてから、笑顔を取り繕った。
「オレ……クロサメのリーダーと話をしようと思うんだ」
途端にシダレが手を止めてオキナを見上げる。眉間には皺が刻まれていた。
「…………どういう意味だ」
オキナは一段と低い声にたじろぎかけたが、何とか釈然とした態度を保ち続ける。
「どうって……そのままだよ。話し合いをして、出来れば和解交渉……なんて────」
そこまで言いかけて、シダレが床に手を付く。そして、瞬時に立ち上がった。その時、腕を突き出されたことに気づくのが遅過ぎた。逃げる間もなく、オキナは胸倉を強く掴まれ、踵が宙に浮く。
「クロサメは殲滅すべき対象だと言ったはずだ。和解など許されん。……今更寝ぼけたことを口にするな」
ギリギリと締め付けるような音。桜色の瞳がオキナを捕らえる。口調は相変わらずだったが、言葉の一つ一つが覇気を帯びているようだった。
「シダ……レ…………離して……!」
焦りと恐怖、そして喉が圧迫される感覚。何とか声を振り絞った直後、オキナは地に落ち伏せた。
「…………馬鹿なことを話しに来る前に、自分のすべきことを全うしろ」
咳き込みながらも見上げたシダレの表情は、クロサメの者を見ている時のそれとさして変わりがないようで。オキナは今の状況以上に彼の本性という事実『そのもの』を恐れる一方で、同時に一つを確信した。
「他に何も無いようであれば去れ。いずれにせよ、貴様の意見は受け入れない」
シダレがドアを指差して言った。しかしオキナはふらふらと立ち上がった以降も尚、その場を動こうとはしなかった。
「ふざけるのも大概にしろ。これ以上貴様に時間を費やす訳には────」
シダレが険しい顔をオキナに向けた瞬間、口を閉じる。オキナ自身も、自身の眉間が強ばっているのを感じていた。
「シダレ……あんたさ、狂ってるよ」
思わず嘲笑が漏れる。シダレは固まったままだった。
「仲間に手を出すようなヤツがリーダーだって? いい冗談だ」
オキナは顎を引くと、確かにシダレを睨んだ。
「あんた最初からそうだったんだろ……カエデを連れ戻そうとした時だって、怒り任せにやったから返り討ちにあったんだ」
「知っているような口を叩くな!」
シダレがカラストンビを剥き出して吠える。しかし、その目に焦りの色が僅かに覗いたのをオキナは見逃さなかった。
「あんたは力でねじ伏せようとして失敗した。今度は更に大勢を巻き込んで同じことをしようとしている……それなら、オレはあんたの下にいるなんてまっぴらゴメンだ」
怒りが徐々に膨れ上がっていく。恐怖はいつの間にか息を潜めていた。
「オレは…………カエデと話をして、この戦いを終わらせたいだけだ。けど此処であんたの下にいる限り、それはできない。だったら……一度堕ちることになっても、オレはオレのやり方で、目的を達成する」
どの道、彼女と話すには何処かでそうするしかないと考えていた。以前ならシロツキに所属したままでそれを試みようとしただろうが、それすら叶わないならいっそ……。
「止めろ…………」
オキナの話を聞いたシダレが目を見開き、口を開く。
「あそこに行けば、お前も戻れなくなる……!」
「どうかな。そういうあんたは、臆病なだけだ」
オキナはそれだけ言うと、踵を返した。
「さよなら、嘘つきの臆病者。オレはクロサメに行かせてもらうよ」
今の彼にお似合いな台詞を投げ、ドアノブへと手を伸ばした。
だが、その手が数センチ先にある金属の取手を握ることは無かった。
「貴様がそうするのなら……俺にも考えがある」
腕を掴まれたオキナは振り向き抗おうとしたが、それすら認めない威厳と気迫がそこにあった。シダレの眼光が、言葉に込められた力が、吐き気を催すほどに強く重くのしかかる。それらは数分前に押し込まれた恐怖が再び顔を覗かせるのには十分過ぎた。
「シロツキが、ましてやその司令が裏切り者を放置すると思ったのが間違いだったな」
今の彼は臆病者と揶揄できるような存在ですらない。オキナは身体の震えを抑えるのがやっとで、その後あの部屋に入るまでは、間に何があったのかさえ思い出すことができなかった。
暗闇に投げ出され、床に俯せる。ようやく意識がハッキリとしてきたオキナは僅かな光が差し込む方へ駆け出したが、それは目の前で重い音がした直後に途絶えてしまった。
「クソ……ッ!」
怒りに任せ、扉を拳の横で殴る。続いて、そこへ寄りかかると、膝を曲げてズルズルとしゃがみこんだ。
そう時間も経たない内に、暗闇に目が慣れてきた。低い天井と、そこを覆っているパイプから漏れる錆びた金属のニオイ。来たときから分かっていたことなのだが、それでもこの場が一部の団員から『拷問室』と謳われているその一室なのだと改めて認識する。先ほど見たクロサメ団員の惨状がアタマをよぎった途端、オキナは思わず竦み上がってしまった。
外から慌ただしい足音が聞こえてくる。おそらく、あのクロサメ団員がまた痛めつけられるのだろう。予想通り、直後にくぐもった、叫んでいるような声が耳に入ってきた。オキナは膝を抱えて震えだす。きっとこの次は……。堪らず手で耳を塞ぐと、叫び声が聞こえてくる方とは反対の壁に走っていき、暫くの間そこに背を付けて蹲っていた。
恐怖と隣合わせになってようやく分かった。彼だけじゃない、『此処』そのものが狂っているんだ。僅かに聞こえてくる悲痛な叫び声を拒絶し、涙目になりながらそう思った。普通だったらこんな仕打ち、例え敵であってもできるはずがない。なのに、どうして?
「あぁ、そうだな……お前に任せる」
それから暫く。耳から手を離したオキナは、シダレの声を聞いて肩を縮めた。鼓動が強く胸を打つ。彼は間違いなく、扉の前に立っている。
「問題が発生した場合は直ちに連絡を」
次に聞こえてきたのはシダレが誰かにそう告げたことと、その場から遠ざかっていく足音だった。オキナは立ち上がり、今度は扉とは反対の壁へ寄っていく。
外からの物音は一つとして響いてこない。誰もいない……のか? オキナはほんの少しだけ安堵し、額の冷や汗を拭おうと腕を上げた――――。
カチッ。
留め金が外れる小さな音に続いて、強い光が目に飛び込んできた。オキナは上げた腕でそれを遮り、様子を窺う。ぼやけた視界、開け放たれた扉の向こう。そこには逆光に照らされた、誰かのシルエットが浮かび上がっていた。
「…………………」
沈黙が続く。フードを被っているらしいそのイカは、顔がよく見えなかった。
「誰――――」
オキナが口を開きかけた瞬間、腹部に衝撃を感じ、壁に強く叩きつけられた。「かは……っ!」たまらず咳き込みその場で四つん這いになった直後、今度は胸倉を掴まれ上を向かされる。
「!?」
相手を確認するより先に、視界が水色のインクに遮られる。不意を突かれたオキナは口の中にインクが入り、言いようもない不快感に襲われた。「ヴッ!」げほげほとインクを吐き出し、痛みに蹲る。腹部にもインクが付着しており、デス寸前だ。
「ぐあっ!!」
相手の攻撃は止まない。続いて脇腹を蹴り上げられ、オキナは仰向けに転がる。一瞬、管だらけの天井が覗いたが、すぐにクツ裏で顔を押しつぶされ、視界も暗くなる。
痛い、痛い、痛い……! これまでに感じたこともない激痛と敵が見えない恐怖に、自然と涙目になる。アタマを蹴飛ばされ、失神しそうになっても恐れが意識を縛り付ける。ここで一度気を失えば、ほぼ確実に死ぬだろう。
「うぐ…………っ」
何度もインクを浴び、容赦ない暴力を受けた。何度も、何度やってきても、相手は手を止めようとはしない。オキナは次第に、痛みが何なのかさえ分からなくなった。誰かが冷たく笑って、オキナの顔を蹴った。
苦しい、苦しい。
アタマに響く衝撃、腕や脚の痙攣、はち切れそうな鼓動の全て、全てが苦しい。
こんなことなら、いっそ――――。
「…………………………」
うめき声すら出せない。ああそうか。さっき喉元をやられたんだっけ。それに、寒い。身体が冷え切ってしまったようだ。冷たいインクが降りかかって、どうしようもなく震えてしまう。
「オマエのしたことは、この罰を受けるに相応しいことだ」
宙に吊られた時、微かにそんな声を聞いた。何となくだが、知っている声だ。
ぼやけた視界に、小さな二つの月を見る。次の瞬間にはぐしゃりと床に崩れ落ち、オキナはそのまま目を閉じた。
走馬灯がアタマの中を駆け巡る。初めてナワバリバトルをした日、彼らと、彼女と出会った日、そして……彼女がいなくなった日。
分からない。オキナは声を上げることもなく、アタマを抱えて涙を零した。どうして彼女はいなくなった? どうしてオレは……彼から、こんな仕打ちを受けている?
泣き叫んでも、自分の中で木霊するだけだ。その中で、オキナはまた一つ、自身の記憶を垣間見る。
「オキナ、少し話がある」
ずっと前の話。彼が珍しく電話をかけてきたことがあった。
「うん……? どうしたの?」
外は真っ暗で、時計の針は丑三つ刻を超えた辺りを指し示している。今、何時か分かってる? というツッコミを欠伸と共に噛み殺し、うつ伏せに寝転がって肘をついた。
「確認したい箇所が幾つかある。昨日のステージマップを開いてくれ――――」
そこから小一時間、オキナは彼から飛んでくる動きや立ち位置の質問に淡々と答え続けた。そのどれもが彼女との連携や彼女の動きそのものに関わってくることで、オキナは少々疑問を覚える。
「あの……シダレ?」
一通り話し終わった後、オキナは思いきって聞いてみた。
「シダレはさ……なんでオレにカエデのことを聞いたんだ?」
自分の気持ちを察して欲しいとか、彼の意図を探りたいとかよりは、素朴な考えが勝った問い。彼は少し間を置いてから、こう言った。
「……あいつのことをよく見ているだろう、お前は」
「え?」
オキナは驚いて危うくイカスマホを落とすところだった。
「あいつは聞いても俺の話はよく分からんと言うばかりでな。だからあいつの動きがよく見えているお前に確認している」
あぁ、なんだそういうことか……オキナはあらぬ方向へ考えを巡らせていた自分を恥ずかしく思いながら、「へ、へぇ……」と相槌をうった。
「あ、もう一つ聞いていい?」
「何だ」
少し怪訝そうな声が返ってくる。多分相手も相当眠いのだろう。確か、普段はかなり早い時間に寝ていたはずだ。オキナは起こされた仕返し半分、我儘半分でその質問を口にする。
「シダレはさ、カエデのこと……どう思う?」
きっとその時の自分の顔は真っ赤だった。通話越しじゃなかったら聞けないような話。だからちょっと期待していたのかもしれない。
「? ナワバリバトルではアタッカーに最適な性格とプレイスタイルの持ち主だと思っているが……お前は違うのか」
どうやら相手は質問の内容をうまく飲み込めなかったらしい。オキナはガクッとアタマを下ろした。
「ええっと、そうじゃなくて……ううん、何でもない! おやすみ!」
彼がおやすみと返しきる前に、通話を切ってしまう。やっぱり、イマイチ話が通じないや。でも……オキナはちょっと笑って、四人で並んでいる写真をイカスマホ上に表示する。彼は少なくとも皆のことを知ってくれている。そんな気がした。
今よりもずっと長い間に積み重ねてきた全てが、たった一つの事実によってガラガラと崩れ落ちていく。信頼も、笑顔も、励ましも、全部、全部。
オキナにはどうすることもできなかったし、どうすることもなかった。ただ力なく座って、泣きながら傍観するだけ。
もう、涙を流す理由さえ見つからない。そこにあるのは僅かな後悔と、果てしない絶望。
彼が拳を合わせて、少し笑った。それから、ちょっとだけ褒めてくれた。オキナにとっても、彼は兄のような存在だった。
そんな彼を知っているからこそ、その目に宿る敵意の光が自分に向けられた時、全て否定したがった。そうして現実を知り……何も信じられなくなった。
再びカチッという音が聞こえて、オキナは意識を取り戻した。僅かに空いた瞼の下から、光の射す方を覗く。
今度は誰なのか、はっきりと確認することができた。見まごう事ない桜色の瞳、蒼い姿。
「…………」
彼は何も言わず、部屋の入口で佇んでいる。ずっと、そこにいる。
「どう……して…………?」
オキナは掠れた声でそう呟き、シダレの方へ這うように進んでいった。
「なんで……こんな…………」
彼のフクを掴み、縋るように見上げる。彼は表情を影に隠したまま、何も言わない。それどころか、動く気配すらなかった。
「あ……あア…………」
桜色の光だけがオキナを見下ろしている。ひどく冷たいそれに映るは、絶望に怯える己の姿。
それでも彼は手を差し出すことすらしなかった。
ああ、そうか。
今のあんたは、オレの知っているあんたじゃなかった。
「ああああああああああアアアアアアッ!!」
大声で叫んだ。悲しみ、怒り、そして……恨み。ぐちゃぐちゃになった感情の全てを、目の前にいる『敵』にぶつけるように叫んだ。
刹那、胸元に穿つような感覚。続いて、灰色の地面に叩きつけられた。息が詰まり、呼吸ができない。僅かに視線を動かすと、片手を上げたまま、こちらを見つめている彼がいた。
これで、終わりなんだ。薄れゆく意識の中、オキナは涙を流した。誰も救われなどしない。死んだって、誰も気に留めやしない。きっと、白と黒の戦いも全部、全部…………最初から、そうだったんだ。
遠くでサイレンのような音が聞こえる。再び暗闇に取り残されたオキナは、長く息を吐いた後、ゆっくりと意識を手放した。
「患者の様子は?」
「全員命に別状はないみたいですが……あの、アオイさん?」
「ん? どうした」
「何故、シロツキの者も連れてきたのですか? 確かにひどい怪我ではありますが……」
「一応だよ、一応。あんな姿見たら放っておけないし」
「ですが……!」
うるさい、うるさい。
「あのさぁ……じゃあ野垂れ死にさせとけばよかったって言うのか? コイツも拷問室の中で見つかったんだぞ」
知っている声がする。オレが知っているということは、多分敵の声だ。
「え……? シロツキが拷問室に……ですか?」
「まぁ、あのクソジジイならそんなこともやりかねないだろ。……アイツ、随分気が立ってるみたいだし」
足音が近づいてくる。オキナはハッとして目を開けた。
「安心しろって。偶然、アイツはアタシも見知った顔――――」
「来るなァ!!」
周辺のカーテンが開けられた瞬間、オキナは傍の棚に置いてあった花瓶を眼前のイカに向けて乱雑に投げた。
「うおっ!?」
驚くような声、続いて陶器が床にあたって砕けるガチャン! という音。
「寄るな寄るな寄るな寄るな……!!」
また誰かが殺しにきた。一気にあの時の痛みや恐怖が蘇る。幾度となく床に叩きつけられ、蹴飛ばされ、そして……。オキナはそれをかき消すように叫び、そして見境なくあらゆるものを声のする方へ投げつけた。
「いってぇ……っ!」
「アオイさん!」
「鋏なんて投げやがった……大丈夫、掠っただけだ。それよりアンタは周りの安全を!」
カーテンの向こう、二つの影が蠢いている。激しく打ちつける鼓動に息を詰まらせながら、オキナは枕を後ろ手に掴み、大きく振りかぶった。
「失せろ!!」
両腕を振り下ろした時、カーテンが大きく開かれ、枕が相手に直撃した。
「……っと! おいおい、枕投げの会場ならもっといいところがあるだろ?」
飛び込んできた枕をキャッチしたライムグリーンのガールが、ニヤッと笑った。左胸のあたりに刻まれた黒い傷のようなマーク、それから……彼女自身の姿。
途端に、オキナの動きがぴたりと止まった。
「はい、これはナシ。ケンカするなら物は使わずに正々堂々とやるか、そうじゃなきゃナワバリバトルだ。いいな?」
ガールがオキナの周りから手に持てそうな物を取り除いて言った。
「でもって、ここはクロサメのアジト内だってことも忘れるなよ。所属上敵のあんたに逃げ場は無いし、こっちも仲間が攻撃されるようなことがあったら容赦はしない」
ガールの言い方は脅しているようでもあったが、どうしてか口調は穏やかだった。「クロ……サメ……」オキナは確かめるようにその言葉を呟いた。
「……とはいえ、アンタも今は患者の一人だ、ちゃんと丁重に扱うし、そこは安心してもらって構わな――――」
「なんで、殺さない?」
ベッドの脇の椅子に腰掛けたガールの話を遮り、問いを漏らす。オキナの声は機械のように無機質で、不器用になっていた。
「敵を、どうして、殺さない?」
クロサメ。自分からすれば敵の名で、即ち相手からすれば自分も相なす者のはずなのに。おかしな夢でも見ているのではないかと思った。
「『敵だから』殺さなきゃいけないのか?」
ガールの顔から笑みが消えた。
「……………………」
オキナはガールの方を見向きもせず、黙り込んだ。視線を落とすと、そこら中ガーゼや包帯に覆われた自分の身体が見える。
オキナはそれをまじまじと見つめる。はじめは訳が分からなかった。……シロツキじゃ、こんなことはありえない。敵なら尚更だ。
「クロサメは倒すべき対象だ。打ち消さなければ、全てを取り戻すことはできない」
誰かが言っていた。クロサメは卑怯で乱暴な連中だと。でも、今置かれている状況は……。
「アンタに何があったのかは聞かない。……怪我が治ったら、後は好きにしな」
ガールがそう言って立ち上がりかけた。
「……カエデ?」
ふと、その名前を呟いた。ずっと焦がれていた、彼女の名を。
ガールが振り向き、動きを止める。
「助けて、くれたの……?」
ようやく彼女を見つめることができた。彼女は最初、驚いたような表情を浮かべていたが、すぐに優しく笑いかけてくれた。
「助けたって言うか……連れ出した、が正しいかな」
オキナの左手を、暖かな手が包み込む。
「でも、正解だったみたいだ。……実を言えば、アンタだから放っておけなかった。もう忘れたつもりだったんだけどな……でも、あんな姿を見たら……見殺しなんて……」
彼女が複雑な表情を浮かべる。「全く、困ったもんだよな。思い出なんて……」多分、彼女は少し後悔している。オキナもそれと同じ気持ちを知っていた。
「とにかく、今はそんなことを言うよりだな。……辛かっただろう? だったら、今はここで休めばいい。他のヤツらが許さなくても、アタシがそうさせてやるから」
彼女がもう一度、笑ってくれた。太陽のように暖かい笑み。間違いない。彼女はカエデだ。ずっと探し、負い続けてきたその人だ。その人が……あの絶望から抜け出させてくれたんだ。
氷のようなオキナの心は次第に溶け、目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「どうした? どこか痛む――――」
「違う、違うよ」
オキナは首を横に振り、指先で涙を拭った。それでも、溢れる雫は頬を伝う。
「ごめん、なさい……怪我、したよね……?」
「さっき暴れたことか? だったら気にすんな。突然癇癪を起こす患者なら慣れてるし」
カエデがアタマを掻いて言った。オキナは肩を震わせたまま、小さな声で呟く。
「あり……がとう…………」
オキナの近くには、昔と変わらぬ笑顔を見せるカエデがいた。その事実だけで、どんなに救われたことか。
それから暫くして、オキナは決意した。カエデがどういった理由でクロサメを立ち上げたにしろ、彼女のために何か役立とうと。今度は自分がカエデの助けになるのだと。
「本当にそれでいいんだな?」
クロサメに残る意志を告げた時、カエデが真剣な表情で聞いてきた。オキナは迷うことなく頷く。
「……分かった。それじゃあ、これからは一人の仲間として接するよ。あ、それともう一つ」
カエデが人差し指を立てた。
「アタシはカエデじゃなくて、アオイだ。いいね?」
そう言うとカエデ――――否、アオイが腕を組む。オキナは小首を傾げた後、「分かった。……アオイ」とその名を口にする。
「よし。それじゃ、今日からよろしくな、オキナ」
アオイがニッと笑うと、手を差し出す。丁度、『カエデ』がチームに入ってきた時もこんな感じだったっけ。
「……よろしく」
しかし、今そこにいるのは『アオイ』だ。ここ数日、クロサメのアジトで過ごすことで気づいていた。オキナにとって、そしてアオイにとっても過去は不要なものだと。
はっきり言ってしまえば最初、アオイ以外のイカはあまり信用していなかった。それでも、彼女が必要だと言うならチームで動くし、連携は乱さない。全ては彼女の目的のために。そこに、和解を願う少年の姿はなかった。
そして今……この場で、あんたを殺す。
これ以上、彼女に負担はかけさせない。
「消えろ!!」
時は現在。オキナは3Kスコープを片手で構え、インク弾を発射した。強烈な一撃が向かう先は、シダレの胸元。
「…………っ!」
だが、シダレが旋回して寸でのところでそれをかわした。続けて、ハイドラントの銃口がオキナを睨む。
「止まれ、オキナ!」
シダレがそう言いつつ、無数のインク弾をブキから放った。オキナは即座に後方へ下がり、射程圏内から免れる。脚元に水色のインクが散らばった。
「ハァッハァ……」
遠距離ブキ同士ということもあってあまり動いていないはずなのに、つい先程から全速力で走った後のように呼吸が荒い。黒インクの活動限界時間を過ぎたのだ。
「リスポーンデバイスから離れるように移動した点も含め……お前の意志は伝わった」
シダレが話し始める。
「しかしオキナ、俺は――――」
「うるさい! 誰もあんたの話なんか聞きたくない!!」
手を振り下ろし、シダレの言葉を切るようにして叫んだ。
「オレはあんたの言うことなんか信じない。あんたが掲げる正義なんて、所詮表面だけの偽りだ……!」
オキナはトリガーを押し込み、チャージしたままの状態でクイックボムを取り出す。
「これで決着をつけてやる……そして、あんたはここで死ぬ!!」
黒インクはジワジワと身体を蝕み、いよいよ末端が痺れ始めた。これ以上先延ばしにすれば不利になるだろう。
「………………」
シダレは何も言わなかった。あの時と同じように、突っ立ったまま、桜色の光を宿したままで、そこにいた。
「行くぞ!」
もうニ度と、這いより縋ることなどしない。あんたが変わったように、オレも変わった。今度はこちらから、その心臓を貫いてやる。
オキナは微かに散らばっている黒インクの中を飛ぶように移動し、シダレへと一気に近づく。相手が動くより先に正面に入り込み、左手に持ったクイックボムを突き出した。
「これで……終わりだああああああっ!!」
オキナは最後の力を振り絞るように叫ぶ。ボムを避ければ、フルチャージ済みの3Kスコープが次の一手を打つ。それを恐れてボムを受けようとも、結末は変わらない。
さぁ、選べ。あんた自身の散り様を!!
鼓動は内側から身体を強く打ち鳴らす。オキナは勝利を確信し、目を見開いた。
パァン! という破裂音。続いて、重い銃声が轟く。
「……!?」
全て終わったと思った。彼の左手が上がるまでは。
驚いたのはオキナの方だった。確かに、確かにボムは敵を捉え、弾けた。勝利を約束されたはずの過程。なのに、3Kスコープがシダレを撃ち抜くことは無かった。
「…………っ!」
クイックボムはシダレの胸を直撃している。そして、3Kスコープは……銃身を握られ、遥か先の地平線を見ていた。
「そんな……!?」
オキナが声を上げた直後、桜色の瞳が正面に見(まみ)える。途端に、背筋が凍るような感覚が走り抜けた。
「俺はまだ……死ぬわけにはいかない」
シダレがハイドラントを振り上げた。目の前に金色の銃口が現れる。そうか……オキナは敗北を悟り、目を閉じた。オレは何時まで経っても、あんたにたどり着けやしない。彼女と同じように、あんたの背もまた遠過ぎたんだ。
ゴメン、アオイ……オレは、ここで枯れるみたいだ。
「――――この手でお前たちを救うまで!」
その声は、オキナのアタマにも響く。思わず瞼を上げたその先で、彼が睨んでいるのはオキナ――――否、その後ろに背負う黒。
水色の散弾が、オキナに降りかかる。しかし、その大半は傷を負わせることなく、背後から僅かに覗いたインクタンクだけを鋭く貫いた。
「う…………っ!」
黒インクが抜け落ち、一気に身体が軽くなる。そのまま、オキナは地面へ仰向けに倒れた。
「ハァ……ハァ……ッ!」
すぐ近くで重い物が地面を擦る音、続いて激しく咳き込む声がした。
3Kスコープは手元を離れ、脚元に転がっている。今のオキナには、最早それを手に取る体力すら残されていないようだった。
「………………」
紅い空をぼんやりと眺めながら、オキナは何をするでもなくそこにいた。起き上がれば負けを知る。しかし、このまま地面に背を付けていても事実は変わらない。であれば、何をする必要もないのだ。負け、負け、負け。ただそれだけを思い、オキナは思わず唇を噛んだ。舌先にインクの味が広がった。
「オキ…………ナ……」
少しして、視界の隅にシダレが映った。口の端から水色のインクを垂らし、胸元には黒い染みが広がっている。
「……なんで、殺さない」
オキナは歯を食いしばり、シダレに問うた。
「敵だからって平気で相手を踏みにじっていたあんたが……何故オレを殺さない……!」
こんな状況に置かれるくらいなら、死んだほうが余程マシだ。オキナは指が食い込む程に、右手を強く握った。
シダレはひと呼吸置いてから、オキナの隣にあぐらをかく。ここで、彼がハイドラントを持っていないことに気づいた。
「確かに、以前はそうだった。その罪が消えることは決してないだろう。だがそれでも……今の俺は、お前やカエデ、そしてクロサメを救うために生きている。その意志がこの結果を生み出した。……それだけだ」
シダレの話を聞いて、オキナは再び怒りがこみ上げてくるのを感じた。
「ふざけるな! 裏切り者としてオレを排除したあんたを、オレは忘れない……! あんたに救われるくらいなら、ここで死――――」
シダレに眼光を向け、そこで口をつぐむ。シダレが戸惑いを隠せない、と言うふうにこちらを見ていた。
「俺が……お前を排除した?」
シダレが呟く。
「あぁ、そうさ。あんたの刺客がオレをいたぶって、最後にあんたがやってきた! それを忘れたって言うのか……?」
オキナはカラストンビを剥き出した。
「だったら相当イカれてる。どっちにしろ、オレを殺したあんたに救われる意味なんか――――」
「刺客だと……? それはどういうことだ。お前は一体、何の話をしている?」
オキナはぐいっと起き上がり、シダレに顔を向けた。シダレはひどく困惑した様子だ。何かがおかしい……先から、全く話が噛み合っていない。
「あんた、まさか……何も知らないのか? オレがあの部屋に連れて行かれて……その後何があったのかを?」
オキナも同様に混乱しながら聞いた。シダレが僅かに目を見開いた後、視線を逸らした。
「……何も知らない、ということはない。あの惨状を見れば、何があったのかも簡単に予想がつく。だが……誰があのようなことを……」
その言葉を聞いて、オキナはアタマを抱える。痛い、痛い。吐き気がする。
「嘘だろ…………? じゃあオレは、何にやられて……?」
「その点で、俺もお前に聞きたいことが――――」
「嘘だ!!」
オキナは咄嗟に叫び、首を振る。うるさいうるさいうるさい。アタマがガンガンする。
「嘘だ……オレは間違ってなんかない、そうだ、全部嘘なんだ……アイツが騙そうとしてるんだ……!」
「オキナ。……っ!」
「触るな!!」
伸ばされた手を弾く。シダレが何か言うが、耳を塞ぎ叫んでその声をかき消した。あんたの言うことなんか信じてなるものか。そうやってまた絶望の淵に叩き落とす気なんだろう?
ずっと昔の記憶がチカチカと見え隠れしている。初めてチームの一員として認めてもらえた日、それからの練習の毎日……彼がよくやったと言って、オキナのアタマに触れた時。
「違う、違う、違う……!」
過去なんて捨てたじゃないか。彼女以外信じる必要なんてないって知ったじゃないか。
『行くぞ、オキナ!』
彼女が彼の隣で、その名を呼んだ。
「う……ああああああああああああアアアアアアッ!!」
息ができない。叫びは次第に悲鳴のようになり、甲高い音を上げた。
シダレが必死な様子で何か言っているが、オキナには聞こえない。その姿を見ることすら拒まれて、オキナは遠く彼方を向く。
瞬間、目に映ったビルの上で、何かが煌いた。
「オキナ!!」
手を下ろしたら、シダレの声が耳に飛び込んできた。そこでオキナもようやく気づいた。煌きから真っ黒な弾が宙に飛び散り、そして……オキナ目がけて落ちてくる。
「あぁ…………」
どうやら、オレの居場所は何処にも無いらしい。遂に黒からも見放されるとは。
呆然と黒い星を見上げ、全てを諦めた時。ライムグリーンがオキナの視界を覆った。
ガガガッと強く地面を穿つ音。反射的に目を瞑るが、不思議と痛みは無い。そうか、死ぬってこういうことだったのか。これなら割と楽に……。
「……オ…………キ……ナ………………」
コポ、という音と共に、生暖かいものが肩の上に落ちる。ハッと目を開けると、オキナのすぐ横にシダレの顔があった。
「逃げ……ろ…………」
シダレはその言葉を最後に、力なくオキナに倒れ掛かる。口からは水色のインクが溢れ出しており、背中には……無数の、真新しい黒い傷跡。
「え…………? そん、な……ど、うして…………?」
震える声で呼びかけても、シダレが答えることはない。次第に全身が震えだした。
「シ、ダレ……? シダレ…………!」
揺さぶっても、シダレの目は固く閉じたままだった。
「止めて、くれよ……オレ、まだ、何も…………!」
何も、なんだ?
オレは、何をどうしたい……?
「…………!」
遠くのビルの上。再び見上げたそこに、オキナは答えを見つけた。
小さな二つの月。それは赤い輝きを放つ三つの金を脇に携えている。
『あの時』も、同じ月が浮かんでいた。
「アイ、ツ、は…………!!」
何の因果か。それとも最初から奴の手の上で転がされていたということか。いずれにせよ真の『敵』が、そこにはいた。
ガクガクと凍えるように身を震わせたまま、オキナは脚元の3Kスコープへと手を伸ばす。そして敵のハイドラントが煌めいた時、閃光の如く腕を上げた。
「散れ!!」
シダレを片手で抱えるように支えたまま、オキナは渾身の一撃を撃ち込んだ。ガンッ! 固いものにぶつかる鈍い音。その後、ミントグリーンのインクがビル上に散らばるのが見えた。
オキナは荒い息を吐きながら暫くビルの上を睨んでいた。手応えは無かったが、どうやら敵は退いたらしい。やがてブキを下ろすと、シダレを地面へ仰向けに寝かせた。
「息は……ある…………」
まだ、生きている。オキナはシダレの顔を見、それから胸元の染みへと視線を落とした。
最初は拒絶していた。しかし今は……オキナは『敵』を見出したことで、ようやくそれと向き合う覚悟ができた。自分には真実が必要だ。それは当然、己が受けたあの絶望のこと、それから……彼が変わった時のこと、現在のこと。掻き乱されたアタマの中を整理するには、感情や理屈以前に、軸となる事実から組み立て直すほかない。そこから何を信じ、何をするかを決めればいい。……きっと、彼女もそう言うはずだから。
周囲のインクは消えかかっていた。オキナは3Kスコープをハイドラントの近くに置き、彼のすぐ横に座す。そうして、静かにその時を待ち始めた。