EPISODE:04
「前線を上げましょう! 私についてきてください!」
モンガラキャンプ場ステージ内。ヒメリは自分が放った『スーパーショット』で敵が怯んだのを見て、後ろの味方に声をかけた。
「させない……っ!」
突如、敵のガール――――ルビィがヒメリの目の前に現れる。黒インクを纏ったスプラローラーコラボを勢いよく振り落とされるが、ヒメリは紙一重でそれをかわした。
「なっ……!?」
「ごめんなさい。でも、負けるわけにはいかないんです」
ヒメリはそう言うと、カーボンローラーの全面を使ってルビィを叩いた。黒インクを使ったインクリングとて、塗られた表面積が広ければひとたまりもない。オレンジ色のインク飛沫がヒメリにかかった後、ルビィの姿は消えていた。
瞬間、ピー! とホイッスルが鳴る。振り向くと、丁度ジャッジ君がシロツキ陣営に向かって旗を振るところだった。
「防衛、成功やね」
エゾッコパーカーのガール――――のあが含み笑いをしながら言った。
「急いで『ハコフグ倉庫』に向かいましょう」
ヒメリはローラーを畳むと、メンバーに言った。
作戦は成功したはずなのに、何故だろう……胸騒ぎがする。
スーパージャンプの指示を出しつつ、ヒメリは密かに焦りを感じていた。
同じ頃。ハコフグ倉庫の一角では、今も尚リーダー対決が繰り広げられていた。
「チィッ……!」
止むことなく飛んでくるシダレの弾幕に、アオイはイカスカルマスクの下で唇を噛む。1度射程圏内から遠ざかり、インクタンク内からポイントセンサーを取り出した。
「貴様がそれを使うとはな」
シダレがアオイの持つポイントセンサーを見た。
「フン……勘違いするなよ」
アオイはハイドラントの動きが止まったのを見計らって、前方に飛び出した。シダレが後ろに飛び退き、再びチャージを始める。アオイは1度コンテナ上に上ると、他のコンテナの側面に向かって跳ぶ。そして、触れる寸前に手にしたボールドマーカーネオで側面を塗り、イカ形態になってそのインクに飛び込んだ。
「これはアンタに弾を当てやすくするためだけに使うんだよ
再びシダレが撃ち込んできた。アオイは先程の流れを繰り返し、『空中雷神ステップ』でシダレの弾を全てかわした。
「小癪な……!」
「そんなトロい動きじゃ、アタシを倒せるわけないだろ!」
アオイはシダレの上空に飛び出すと、ポイントセンサーをそこに落とす。シダレがすぐにイカ形態になって引いたが、センサーは彼を逃さなかった。
「次!」
アオイは距離を取ろうとするシダレに『ダイオウイカ』で追い討ちをかける。シダレがコンテナを利用して死角に免れようとするが、センサーは誤魔化せない。
「……っ!」
シダレが声を漏らすと同時に、目の前でスーパージャンプする。アオイはダイオウイカを解くと、辺りを見回した。
「センサーも切れたか……っ!」
アオイは横から水色のインクが飛んでくるのを見て、すかさず飛び退く。コンテナ裏から様子を窺うと、シダレが水色のリスポーンデバイス前に立ち、こちらに銃口を向けていた。
「身体能力だけでなく、動体視力、周辺視野も上がっているようだな」
シダレがハイドラントを唸らせて言った。
「追い詰められたくせに、よくそんな悠長なことが言えるな!」
アオイは鼻で笑いながら、シダレの前に姿を現した。
「そのリスポーンデバイスも、すぐに塗り替えしてやる」
「俺が何の意味もなくここにいるとでも思っているのか?」
シダレがアオイを見る。アオイは「ハッ!」と挑発的な態度を取ってみたものの、徐々に焦りを感じ始めていた。
「どきな!」
絶え間なく襲う弾丸を目で追い、かわす。再びコンテナに上り、シダレに向かって跳んだ。しかし、動きを読んでいたのか、シダレがスプラッシュボムをアオイの着地点に転がした。
「クソ……っ!」
アオイは着地する前にボムを蹴飛ばすが、すぐに空中で爆発した。飛沫に襲われる中、再びシダレが雨霰のような弾を放つ。アオイは伸身後転で引きながら、弾幕から逸れた。
「総員、敵の殲滅にかかれ」
シダレが左手を挙げると、無数の『スーパーセンサー』が四方八方に飛んでいった。
「所詮は甚兵衛の腹を借る小判鮫……じきに決着が着くだろう」
シダレがアオイを見下ろして言った。
「ヒトをも喰らう鼬鮫の間違いじゃないか?」
アオイはシダレを挑発しながら、すかさずイカスマホに繋いでいた、イヤホンマイクを耳にかける。
「聞こえるか!」
『どうしました?』
連絡先はオクタグラスをかけた、アタマのイカ足が特殊なガール――――イクだった。
「今から全員、塗りに徹しな! ここからは……」
アオイは1度言葉を切ると、壁裏に隠れた。シダレの放った無数のインク弾が、周辺を水色に染めていく。
「これ以上、貴様らの好きにはさせん」
シダレの動向が爬虫類のように細くなる。アオイはシダレの右足が、僅かながらリスポーンデバイスを踏んでいるのを見て、歯を食いしばった。
一方、ハコフグ倉庫の中央付近。ここではオキナ率いるクロサメのメンバーたちが、シロツキの包囲網を突破しようとしていた。
「面倒だね」
カレッジスウェットグレーを着たボーイ――――ノウフィンが気怠そうに言う。その周りには、シダレが放ったスーパーセンサーの帯がまとわりついていた。
「センサーなんて関係ねえ。やられる前に全部やっちまおうぜ!」
キャディサンバイザーを被ったガール――――ゼロヨンがスプラチャージャーを構える。その先には、こちらに背を向けて立っているシロツキのガールがいた。
「もらった!」
ゼロヨンが喜々として叫びながら、チャージャー弾を放つ。しかし、喜びも束の間。敵は未だチャージャー弾を見ないまま、それを平然と避けた。
「え……?」
ノウフィンが目を見開く。次の瞬間、そのサファリハットを被ったガール――――ココアが振り向いたかと思うと、ニコッと笑った。
「ありがとうございます、リーダー。おかげでやられずに済みました」
ココアの言葉を聞いて、オキナは先ほどアオイが言いかけたことの意味を理解した。
「最悪」
オキナは吐き捨てるように言った。クロサメのメンバーがすっかり動揺し、目を見合わせる。
「あのガールは一体……?」
「違う。あの子じゃない」
マウンテンオリーブを着た、目が特徴的なガール――――フィーユの問いに、オキナは首を振った。
「全部、シダレのせい」
オキナはそう言うと、マップを取り出した。
「ここにいるの危険。センサー無くなるの待って」
オキナはすぐにイカ形態になりその場を離れるが、途端にコンテナ上からシロツキのイカが降ってくる。
『B2エリア、コンテナ下を敵幹部が通過』
敵が耳にかけたイヤホンから、声が漏れている。オキナはそれを聞き逃さなかった。
――――やっぱり、キミのそれは、例えアオイでも敵わないよ。
「残念」
オキナは敵がブキを構えてきた瞬間、『ダイオウイカ』に変身する。油断していたのか、敵は着地点であっさりとやられた。
「でも……アオイ、負けない。負けさせない」
オキナは再び通常のイカ形態に戻ると、先を急いだ。
シダレはリスポーンデバイスを軸にして、アオイの侵攻を防いでいた。
「A3中央に敵5。チャージャー無し。C1が手薄だ。注意しろ」
右手でハイドラントを操りながら、左手でマップを確認する。『スタートレーダー』が発動しているマップ上には、味方だけでなく敵の情報も表示されていた。
「チッ……これ以上好きにさせるか!」
アオイが痺れを切らしたのか、センサーも気にせず飛び出してきた。シダレはフルチャージしたハイドラントを向け、アオイを追い払う。
『リーダーの指示通り、C1は敵がいなかったので確保しておきました』
「ツツイ、そのままA3へ向かえ。今なら奇襲で狩れる。A1、A4、B2は援軍が来るまで戦線維持、または待機」
ここまでは想定内か……。シダレはスプラッシュボムを投げると、リスポーンデバイスから離れて前進する。予想通り、アオイが後方へ逃げ、センサーも外れた。
「まったく、余計なことをしてくれたよ」
弾幕を利用してアオイをリスポーンデバイスから遠ざけた後、コンテナ上からアオイが見下ろしてきた。
「これで分かっただろう。黒インクでは対抗できないものもあると」
シダレはアオイを見上げた。
「ハッ、だから何だっての」
アオイが小馬鹿にしたような態度を取る。シダレは眉をひそめた。
「アンタに言われたって、説得力もクソもないね。それとも……もう1度、そのアタマを撃ち抜かれたいのか?」
アオイの言葉を聞いた途端、シダレは銃口を向け、無数のインク弾を撃つ。コンテナの側面を上るように撃たれた弾は、寸でのところでアオイにかわされた。
「逃さん……!」
最後の数発を、空中に飛び出したアオイに向け放った。しかし、アオイが身をひねって全て避ける。インク補充のためにセンプクしている間に、アオイが空中で回転して地面に降り立った。
「アハハッ! 図星ってやつかい?」
アオイが指先でボールドマーカーネオをクルクルと回しながら言う。シダレは目を見開いた。
「潰す……!」
怒りのこもった弾を撃ち放つ。またしてもコンテナの側面を上るアオイ。シダレは構わず撃ち込むが、側面上を不規則に動くアオイを仕留めることはできなかった。
「終わりだよ!」
アオイが叫ぶと、インクから飛び出す。シダレは咄嗟に真っ向から勝負を仕掛けようとした。しかし、インクタンクは既に空になっていた。
「消えなァッ!!」
アオイが目の前に現れ、ブキを突き出す。その黒い瞳には、為す術もなくハイドラントを構えるシダレ自身の姿が映っていた。
――――青白い満月の下、気づけば彼女は冷たいものを俺の額に当てていた。その力に圧倒され、呆然としている間に、マスクが口元から外れて……。
結局、あのときと変わらないままなのか。
……そんなことはない。否、認めてはならない。だからこそ、次は――――。
「……っ!」
アタマを弾かれる衝撃。眩む視界の中、咄嗟に片脚を回した。
「な……っ!?」
シダレの蹴りは、アオイの腹部を捉えていた。そのまま押し込むと、アオイが吹っ飛んでコンテナに激突する。凄まじい轟音が辺りに響き渡った。
シダレは荒い息を吐きながら、未だアオイの方を睨んでいた。左側の視界が、垂れてくるインクで遮られている。すぐ傍に、でんせつのぼうしが落ちているのが垣間見えた。
「まさか……そう来るとはね…………」
舞い上がる砂埃の中、アオイが腹を抑えて立ち上がる。既にマスクは口元から外れ、憎悪の表情が顕になっていた。
「そういうことなら……こっちも容赦しない」
アオイがフラッと体を揺らめかせたかと思うと、シダレに向かって一直線に走り出した。シダレは少量のインクをチャージして放ち、応戦する。
「ウザイんだよ!」
しかし、アオイがその弾を腕で弾く。シダレはすぐに後退しようとした。瞬間、再び接近してきたアオイが、今度は左の拳をシダレに向ける。
「ぐ……っ!」
右頬に鈍い痛みが走る。仰向けに倒れたシダレにアオイが飛びかかり、ボールドマーカーネオを構えた。それを見て、シダレは躊躇することなく裏拳を繰り出していた。
「がっ! ……ハァ、あ……………」
手の甲に頬骨がぶつかる感覚。シダレはブキを置いたまま立ち上がると、横に倒れていたアオイの胸ぐらを掴んで持ち上げた。アオイの手から、ブキが転がり落ちる。
「……ツメが甘いのは、変わらないようだな」
シダレは力なくアタマを垂れているアオイを見て言った。
「…………ハッ」
一瞬、アオイがニヤッと笑った。そして、シダレが反応するより速く、足を突き出してきた。
「っ!!」
左脇腹の激痛。シダレはアオイを放り投げると、右手で腹部を抑え、その場に屈んだ。
「ツメが甘いのはアンタの方だろ」
アオイが立ち上がり、口から垂れていた黒インクを拭って言った。シダレも脇腹を抱えたまま、ゆっくりと視点を戻した。
――――何故、ここまで違う。目の前にいる『アオイ』と呼ばれた彼女は、確かに『知っていた』。なのに……今は何も『知らない』。
名前以外、何も変わっていない。そう、名前と、あの顔を隠すマスク以外は、何1つ。笑い方も、敵対した時の表情も。だからこそ……。
「こんなことをして、何の意味がある」
シダレの口から、自分でも思っていないような言葉が漏れる。アオイから表情が失せた。
「まだ……そんな甘ったれたことを考えてるのか?」
アオイの声が震える。シダレが気づいて目を上げた頃には、既にアオイの怒りに満ちた顔が眼前にあった。次の瞬間、遮られた視界の隅に、またしても強い衝撃を感じた。
「アンタにアタシの……アタシたちの何が分かる!!」
シダレは倒れそうになるのを堪えて、アオイを睨んだ。向き直ってすぐに、アオイの頬を殴る。
「それで、革命を起こして何になると言っている。所詮は……貴様らの勝手でしかない!」
シダレは続けて、膝蹴りをアオイの腹部に打ち込んだ。
「その勝手が、全てを奪った。貴様らは誰かのためになどと言うが、結局は自身の欲のための戯言だ。許されるべきでないことは、貴様であろうとも分かるはずだ」
「今更アタシに向かって説教のつもりかい? ご立派なことだね!」
呻いていたアオイが、肘でシダレの腹部を突く。
「アンタや周りのヤツらに何と言われようが、そんなことどうだっていい。勝手? 上等だ。全部成し遂げられれば、そんなこと言うヤツもいなくなるんだからな!」
アオイが左脇腹に拳を入れる。水色のインクがシダレの脚を伝った。
「が……っ…………!」
痛みのあまり、声を漏らす。危うく倒れそうになるが、アオイの肩を掴んで持ちこたえた。
「目を……覚ませ…………カエデ……!」
シダレは何も考えず、ただ必死で声を振り絞った。掠れた視界でも、相手の顔が歪んだのが分かった。
「その名前で呼ぶなあああああああアア!!」
手が上がる。シダレも拳を向けた。
「そこまでです」
聞きなれた声。首筋に冷たいものが触れて、シダレは手を止めた。
「今更、何の用だ? ……ヒメリ」
アオイがシダレを見たまま言った。気づけばヒメリが、アオイの脇でカーボンローラーを突きつけていた。
「警告。これ以上は無意味」
シダレの喉元に3Kスコープカスタムの銃口を当てているオキナが言った。
「審判が来ない時点で、今回のこれはナワバリバトルではないと判断しました。また、騒動を聞きつけて双方、多くの団員が混乱状態に陥っています」
ヒメリがアオイの次に、シダレを見て言った。
「以上の点を踏まえ、私の方から各自撤退という提案をさせていただきます。如何ですか?」
「異議なし。アオイ、傷ついてる。みんな心配してる」
オキナの言葉を機に、ヒメリが頷いた。そして、お互いの幹部はリーダーを解放した。
「お兄ちゃん……!」
ヒメリが途端に心配そうな表情で駆け寄ってくる。シダレはそれでも尚、オキナに肩を貸されるアオイの様子を見ていた。
「ハァッ……ハハ、情けないね。アタシがこんな……っ!」
「インクタンク貸して。限界のはず」
激しく咳き込むアオイから、インクタンクを取り外すオキナ。咳はすぐに収まったが、外傷によるダメージからか、息は荒いままだった。
「リーダー!」
「大丈夫ですか……? すぐに手当を……」
「クソッ、覚えてろよ……!」
やがて、各々のメンバーがリーダーのそばへと集ってきた。ヒメリが少し屈んでいるシダレの左側に立った。
「……忘れるなよ。次会ったときは必ず、アンタを潰す」
アオイがシダレに向かって言うと、メンバーたちに支えられてその場を去ろうとした。シダレは思わず後を追おうとする。しかし、踏み込んだ瞬間、身体が動かなくなった。
「お兄ちゃん!? 大丈夫――――」
ガクン、という衝撃の後、アタマに何かが触れる。遠のいていく景色の中で、手を伸ばそうとするが、力が入らない。
行くな…………カエ……デ……。
言葉にならない声が、虚しく吐き出される。それを最後に、シダレは暗闇へと落ちていった。
イカスツリー内、救護室。アオイはベッドの端に腰掛け、足元をジッと見つめていた。
「治療する。動かないで」
オキナが道具を持ってきて言った。アオイは抵抗することもなく、黙ってその様子を目で追う。時折、刺すような痛みが走り、目を瞑った。
「みんなはどうした?」
「邪魔だから、追い払った。怪我、見せたくない」
それから少しして、オキナが「できた」と呟いた。アオイはそれでも尚、顔を上げようとはしなかった。
「……なぁ、オキナ」
しばらくして、アオイはオキナを呼んだ。薬棚を弄るカチャカチャという音が、止まる。
「今まで黙ってきたけど……いい加減、話すべきなんじゃないかと思うんだ。つまり……」
アオイはようやく、オキナを見据えた。オキナも、アオイを見つめていた。
「もし、オキナが嫌なら、言わないでおくよ。でも、構わないなら……」
アオイは口をつぐんで、オキナの答えを待った。外から、話し声が聞こえてくる。
「……アオイがいいなら、いいよ」
オキナがいつも以上にハッキリとした口調で述べた。アオイは頷くと、「ありがとう」と言って立ち上がる。
「リーダー、怪我の方は……?」
「大丈夫だ。それより……みんなに、話したいことがある」
イカ足が片方しかない、スタジャンロゴマシの前を開けて着たガール――――ヒダリに笑いかけると、他のイカたちに向き直った。
「今日の相手リーダー――――シダレとアタシの話を聞いたヤツも、少なからずいただろう。その上で、腑に落ちないでいたのなら、当然だとも思う」
アオイは不安がるメンバーたちを見回して言った。彼を『シダレ』と呼んだのも、1年以上ぶりのことだった。
「だからこそ、今話すよ……アタシがどうしてアイツのことを知っているのか。そして……クロサメができるまでの、全てを」
アオイはそう言うと、首にかけたマスクの下から、インクタンクを模したアクセサリーが付けられたネックレスと、使い込まれたオクタグラスを取り出した。
「かれこれ、1年半前になるかな……当時、アタシは『アオイ』ではなく、『カエデ』という名前だった。そのときはまだ、アタシもバトロイカが経営する、公式のナワバリバトルに参加していた――――」
そうして、アオイ――――否、カエデは、かつての記憶を辿りながら、1つ、また1つと語り始めた。
目が覚めると、救護室の天井が見えた。起き上がると、重いアタマがグラつく。どうやら包帯が巻かれているらしい。続いて、全身の痛みが襲ってきた。
「お兄ちゃん……!」
横からヒメリの泣きそうな声がしたかと思うと、勢いよく抱きつかれた。シダレは呆然としたまま、耳元で妹がすすり泣く声を聞いていた。
「一日中目を覚まさなかったから、ど、どうしようって……! それと、お兄ちゃんのアタマの傷、みんなに見られちゃった……あんなに嫌がってたのに……ご、ごめんなさい!」
ヒメリが嗚咽混じりに謝る。シダレはそっと、ヒメリのアタマに触れた。
「……お前の責任じゃない」
俺があのとき、冷静にさえなっていれば……シダレはそう続けようとして、言葉を呑み込んだ。
「皆の様子を見てくる。……お前も休め」
シダレはベッド脇の棚からマウンテンオリーブを取って着る。それから立ち上がると、でんせつのぼうしを被って外に出た。
「あ、リーダー……体調はどうだ?」
部屋を出てすぐに、レタードグリーンを着たボーイ――――エイドが声をかけてきた。
「優れているとは言い難いが……特に支障はない」
シダレはなるべく患部を悟られないように振る舞いながら、エイドの問いに答えた。
「そうか。……そうだ、リーダーのハイドラントのことだけど」
「俺とエイドで整備しといたんよ。リーダー、ブキ大事にしとったし、少しはやっておいた方が良いと思って」
エイドと、その隣にいたアーバンベストナイトを着たボーイ――――タクが微笑を見せて言った。シダレは「そうか……すまない」とだけ言うと、その場を後にした。
拠点内を歩いている間に、多くのイカたちに声をかけられた。皆、心配してのことだろうと察してはいた。しかし、誰もが最後には何か困ったように口を開きかけて、すぐにつぐむ。シダレはその意味も分かっていた。
「リーダー……!」
誰かが後ろから、声をかけてくる。しかし、シダレは振り向くことができなかった。振り向きたくなかった。
「しばらく……1人にさせてくれ」
次の瞬間、シダレは自分の部屋にいた。薄暗い部屋で、ハイドラントが鈍い金属光沢をたたえている。いつもならその前に向かうはずなのに、気づけばシダレは自分のベッドに腰掛けていた。
ふと、飾り棚に置いてある写真立てに手を伸ばす。伏せられたその面を見つめた後、意を決し、ひっくり返した。
もう、全て忘れたと思っていた。しかし、実際は違ったのだ。
俺は一体、今まで何を……何のために……。
「カエデ……」
震えた指先に持った額の中には、過去の彼が、妹が。そして、バックワードキャップを被った、たこTを着たボーイと……オクタグラスをアタマにかけた、得意げに笑うガールが、曇り1つない空の下で、並んでいた。