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EPISODE:07

 背の高い植物のそばで倒れているガールは、ぴくりとも動かなかった。カエデはその黒いアタマのてっぺんを、穴があくほど見つめた。
「……! お、おい!」
 少しして、カエデは我に返る。そして、ガールの元へ駆け寄った。
「大丈夫か?」
 仰向けにしてから、もう1度声をかけると、ガールの口から呻き声が漏れた。
「うぅ…………あなたは………………?」
 ガールがうっすらと開けた目をカエデに向ける。その瞳もまた、漆のように黒い。
「アタシは……って、そんなことより! 帰りにここを通りかかったらアンタが倒れてて……一体何があったんだ?」
 カエデは上体を起こそうとするガールを手助けしながら聞いた。
「き、気にしないでください……ちょっと転んだだけですよ」
 ガールが取って付けたような笑みを見せると、頬を掻いた。見たところ、カエデよりも幼いようだが……ひどく物腰が丁寧だ。
「そ、そうか……あぁ、自己紹介がまだだったな。アタシはカエデ――――」
 それから少しの間、カエデとガールは会話に興じた。煤けたような黒いTシャツを着たガールは相変わらず、何処か素っ気ない様子を見せている。ただ、嫌がっているというよりは、不慣れなことをやっているときのような……ぎこちなさからくる印象が強かった。
「そういえばアンタ、ナワバリバトルはやってないのか?」
 カエデはふと、そんなことを聞いた。
「え…………?」
 途端に、自然な笑みを見せ始めていたガールの表情が、石のように固まった。
「ん、どうした?」
 カエデはヘラヘラと笑いながら話しかける。その一方で、ガールの目はみるみるうちに見開かれていった。
「それは……ひ、秘密です!」
 ガールがそう言うと、弾かれたように立ち上がる。あまりにも突然のことに、カエデは瞬きをすることしかできなかった。
「もうこんな時間! 日も暮れますし、帰りますね!」
「え、あ、ちょっと!」
 カエデが呼び止めようにも、ガールは既に遠くへと走っていってしまった。
 何だアレ……変なこと言ったかな。カエデはアタマを掻きながら、首を傾げる。そばで自生している立葵は、未だ風に揺られていた。

 翌日、イカスツリー下ロビー前。カエデは昨日出会ったガールのことをぼんやりと考えていた。
初めて見たな……黒色のアタマ。最初はびっくりしたけど、よくよく見たらかなりイカしてたよなぁ。他にも色々と、気になることがあるし。
また、会えないかな…………。
「カエデ?」
 突然話しかけられ、カエデは危うく飛び上がりそうになった。
「な、なんだ……オキナか」
 カエデはホッと胸を撫で下ろして言った。
「ご、ごめん……1人でいるのも珍しいと思って」
 オキナが苦笑する。
「そういえば、なんでアイツら来ないんだ? シダレなんか、いつも遅刻するなってうるさいくせに……」
 カエデは腰に手を当てて、怪訝な顔をしてみせた。すると、オキナがきょとんとした表情になる。
「あれ、言ってなかったっけ……? 大会終わった直後だし、今日は練習休みだって」
「……何だって!?」
 叫んだ後で、肩を落とす。よりによって、真面目に取り組もうと思っていたときにコレとは……。
「ごめん…………ちゃんと連絡しておけばよかった」
 オキナが目を伏せた。カエデは「ハハ……」と笑うことしかできなかった。
「だったら1人で行くしかないな……ありがとう、オキナ」
 カエデは手を振り、ロビー入口の方を向いた。
「あ…………あのさ!」
 自動ドアが開き、その中へ入りかけた時。オキナがまた声をかけてきた。
「お、オレも予定とか何も無いし…………よければその、い、一緒にタッグマッチでも行かない……?」
 聞きなれない、どもった口調。カエデは目を瞬かせた。
「お、おう、サンキュー! あと2人も集めるか?」
「え!? あ……ううん! 2人で行こう!」
 カエデの返答に呆然とした後、オキナが首を振った。
「それじゃ……早いとこ部屋に行くか」
 カエデはオキナの手首を掴むと、ロビー内へ連れ込んだ。オキナの顔はどうしてか、茹でたタコのように真っ赤だった。
「今の時間はガチヤグラか……大会前はずっとナワバリバトルかガチエリアしかしてなかったから、少し不安だな」
 フロントのエレベーターを下って待機室に入るなり、カエデは冗談混じりで言った。程なくして、味方と敵の名前が円形の壁に表示される。
「それなら大丈夫だよ!」
 オキナが見慣れないブキを持ち上げ、肩に担ぐ。金属質の細長いシルエットに、黄色と青のステッカーがあしらわれた狙撃銃……。
「オキナ、それ……3Kスコープカスタムじゃないか」
 カエデが目を見開くと、オキナが鼻の下を擦った。
「へへっ……内緒で練習してたんだ。デュアルスイーパーカスタムじゃ、流石に守りきれないと思って」
「守るって、何を?」
「それは勿論、カ…………じゃなくて! ほ、ほら……ヤグラだよ、ヤグラ!!」
 オキナがバックワードキャップをアタマから落としかける。カエデはそのおどけた様子に、思わずクスクスと笑ってしまった。

 イカスツリー外に出た時には、早くも日がブイヤベースの影に隠れようとしていた。
「今日はありがとな」
 カエデは伸びをしてから、オキナを見た。
「ううん。オレの方こそ、ありがとう。楽しかったよ」
 オキナがそう言って、ポケットをまさぐり始めた。
「これ、ちょっとしかないけど……よかったら」
 カエデはオキナに手渡された小さな袋を、摘んで持ち上げた。白い袋の表面に書かれたイカ文字から察するに、中にはクッキーが入っているらしい。
「家に帰ってから食べるよ。さて……アタシはそろそろ行こうかな。それじゃ!」
 手を挙げ、広場の出口に向かって歩き出す。「また明日!」振り返ると、オキナがこちらに向かって手を振っているのが目に入った。
 カエデの家はイカスツリーからそう遠くはない、ビル街の外側にある団地だった。いつものように高い建物がそびえる窮屈な十字路を抜け、開けた川沿いに出る。機嫌が良いから、手料理でも作るかな……。まさにそんなことを考えていた最中。突然、川のそばから、下品な笑い声が聞こえてきた。
「なんだ……?」
 折角の気分を害されたように感じ、カエデは眉をひそめる。そして、その目が堤外へと移ったとき、まるでヤモリか何かのように瞳孔が細く、そして小さくなった。
 昨日と同じ花が、川の上を吹き抜ける風に胴を傾けながら、咲いている。そのすぐ下で……黒いガールが、複数のイカたちに囲まれ、うずくまっていた。
 カエデの中で、何かが蠢いた。
「んだよテメェ……」
 取り囲んでいた連中の中でも、一際背が高いボーイが、けったいな顔をする。既にカエデは芝の上に立ち、ボーイたちを睨みつけていた。
「アンタたち、どういう理由があってそんなことしてるんだ?」
 カエデは相手に鋭い眼光を向けたまま、低い声で言った。
「どうしてって……こいつがナワバリバトルできないってのがダサいから、ちょっと傷でも付けてカッコよくしてやろうとしてるんじゃないか」
「見ろよ、このフク……自分で稼げもしねぇから、こんなもんしか身につけられねぇんだ。イカの恥だぜ」
 ゲラゲラと笑い出すイカたち。ボーイが自分の右に付けていた、黒いブレスレットを回した。
「昨日この子が倒れていたのも、全部アンタたちの仕業だってことなんだな?」
 カエデの問いにイカたちは嫌な笑みを向けるばかりだったが、カエデにはそれが「イエス」だと分かった。自然と、懐に手が伸び始める。
「ま、このことを他の誰かに告げ口されても困るし、あんたもくたばってもら……」
「くたばるのはオマエらだ、藻屑共」
 長身のボーイの脇に入り込み、喉元にボールドマーカーネオを突きつける。
「……っ!? こいつ、一瞬で……!」
「あと3つだけ待ってやる。デスしたくなかったら……今すぐここから立ち去れ」
 「何を……!」他のボーイがカラストンビを剥き出したが、カエデの一瞥で後退する。やがて、連中は鮫を目の前にしたかのように、怯え始めた。
「……3、2…………」
 ブキのトリガーにかけた指が動いた時、イカたちは一目散にその場を離れていった。
 カエデは一息つくと、黒いガールの前でしゃがみ、手を伸ばす。しかし、ガールがその手を掴むことはなく、ただ唇をキュッと結んで、カエデの目を見つめていた。
「……本当なのかい? つまり、その……ナワバリバトルができないって」
 カエデが口を開いた途端、ガールの口元からカラストンビがのぞいた。
「ええ、そうよ。この黒いアタマとインクのせいで、私はずっと虐げられてきた。色を変えることすらできない。しかも、黒インクは相手を傷つけるだけの、忌々しいモノ……そのことを話しただけで、誰もが私のことをダサくて最低なヤツだって言ったわ」
 ガールが詰まりかけた声で言う。その目には、涙が溜まっていた。
「あなただって、この話を聞いたら私を嘲笑うに決まっている。だから、最初に会ったときは普通を装っていたの。けど、知ってしまった……折角、普通に話せる人を外で見つけることができたのに」
 ガールが顔を伏せ、啜り泣き始めた。カエデはガールの話を聞いて、何一つかける言葉を見つけることができなかった。
 それでも……手で触れることはできた。
「……そんなことない。アンタは…………アンタだろ」
 ガールの肩に手を置いた後で、やっと捻り出した台詞。
「だからつまり……あ、アタシはナワバリバトルができないからダサいだなんて思ってないし、寧ろ黒インクはカッコいいなぁ……なんて」
 目を丸くして顔を上げたガールを見て、カエデは慌てて付け加えた。しかし、ガールは何も言わない。
「アー……そうだ! クッキー持ってるんだけど、一緒に食べるか? 勿論、嫌いなら無理にとは言わないけど――――」
 クッキーの袋を差し出そうとして、顔を逸らした時だった。突然、ガールがカエデの両腕を掴み、下を向いて泣き始める。カエデは最初、驚いてガールのアタマを見つめていたが、次第にその背中に手を伸ばしていった。

 その日から、カエデと黒いガールは友好を深め、毎日のようにあの川辺で話をした。もっとも、カエデは日課のナワバリバトルがあったため、ガールと会うのは決まって夕方だったが。
「それで、今日はアイツがな――――」
 身振り手振りを合わせて、1日の中であった様々なことをガールに話す。彼女はナワバリバトルそのものが大好きだと言い、いつも面白おかしそうにカエデの話を聞いてくれていた。
「ふふっ。カエデって、チームの人のこと……特に、『シダレ』って人のことを、大切に思っているのね」
「まさか。あんなジジイみたいなヤツ……」
 カエデが腕を組んでしかめ面になると、ガールはクスクスと笑う。カエデもつられて、思わずニヤリとしてしまうのだった。
 一方でハイカラシティは、ナワバリバトルをする若者たちにとって、窮屈な場所になりつつあった。過激な初心者狩りと、ウデマエカーストによる強者の支配的行為。その手は、遂にカエデのところへも被害を及ぼした。
「何だって?」
 ロビー前。胡散臭そうな人目を無視して、カエデは目の前のボーイに大声で聞き返した。
「……前に言われたんだ。『弱い奴は2度とその面を見せるな』って。それに……僕自身、もうナワバリバトルは沢山なんだよ」
 かつてカエデとシダレに憧れたボーイが、悲しそうに笑う。カエデは胸が締め付けられるような気がした。
「待てよ……そんなヤツなんか、アタシがまた倒してやる! そしたらまた――――」
「強いあんたには、僕のことなんか分からないよ!!」
 背を向けて叫んだボーイの言葉が、喉元に突き刺さったようだった。
「……ごめんなさい。弱いのは自分のせいなのに」
ボーイが作り笑顔を向ける。カエデは息をすることさえも忘れ、広場を歩き去っていくボーイを呆然と見つめていた。空は厚い雲に覆われ、今にも雨が降りだしそうな様子を見せていた。
カエデは他にも、初心者やウデマエカーストに悩まされた者たちと以前から交流関係を持っていた。相談の数は増えていくのに、フレンドは徐々に減っていく。皆、この街にいるだけで、干上がってしまいそうだと感じていたようだ。やがてカエデも、ナワバリバトルに楽しさを見出すことが難しくなっていった。
今倒したガールは、アタシのことをどう思っているのだろう。もしかしたら、この試合を最後に、ハイカラシティからいなくなってしまうのではないのだろうか。
次の敵が向かってきた時、トリガーにかけた手が緩んだ。
「何かあったのか」
 ロビー前の壁にもたれ、俯くカエデの前に、シダレが立っている。
「何かって……どうしてそう思うんだ?」
 カエデはわざと笑ってみせた。
「練習中の動きが鈍かった。それと、最近はチームの者たちともあまり話していないそうだな」
 シダレは目をそらさない。いつもはここでブキの部品整備をし始めるはずなのに……。カエデは楽しそうに話しているヒメリとオキナの方を見た。
「無駄口だけは多いお前のことだ。話せないのは事情があるとは思うが……」
 カエデはシダレと目を合わせる。いっそのこと、全て話してしまおうか。一瞬、そんなことを思う。しかし……カエデは果たしてシダレにそれを言っていいものなのかと、1人葛藤した。
 目の前にいる彼は、強いようで繊細なことを、先日になって初めて知った。
「そこだけはジジイらしくない、可愛い色をしているよな」
この前、目のことでふざけてそんなことを口にしたら、次の日からでんせつのぼうしを深く被るようになっていた。普段は軽く言ったことをあしらっているようで、心中では本気になって受け止めてしまう。カエデも、本当は「綺麗だ」とさえ思っていた目のことを、シダレに言えるわけもなく、冗談混じりに言ってしまったのだ。
ひょっとしたら、シダレも何か悩んでいることがあるのかもしれない。でも、当然カエデから聞き出すこともできない。そんなの、ガラじゃない。
だったら、アタシのことも――――。
「何でもない。ちょっと……睡眠不足なだけ」
 カエデはもっともらしい言い訳を付け加えて、また笑顔を作る。シダレが少し遅れて「そうか……」と呟いた。
「では、今日は少し早めに解散するとしよう。大会も近い。万全な状態で挑まなければな」
 シダレがそう言って、ロビーの入口の方へ歩き始めた。
「無理はするなよ」
 すれ違いざま、耳元で小さな声がした。カエデは勢いよく壁から離れてそちらを見るが、シダレの姿は既に扉の向こうへ隠れてしまっていた。

「――――それで、結局何も言えなくてさ。アンタに話したってワケ」
 カエデは芝の上に座りながら、ため息をついた。新緑の坂を下ったところでは、水面が淡い橙色の光を反射して煌めいている。
「そうだったの……大変ね、カエデも」
 隣でガールが板チョコを頬張りつつ、半ば他人ごとのように言う。甘いものが大好物だという彼女に、カエデはよく菓子を買ってあげていた。
「この状況なのに、バトロイカは全く動こうとしないし、かと言って、アタシだけでどうにかなる話じゃないし……あー、なんかムシャクシャする!」
 カエデはアタマを掻くと、あぐらをかいた脚に手を思いっきり叩きつけた。
「んー……難しい話みたいね。でも、それにばかり気を取られていても仕方ないんじゃない? 近々大会があるって言ってたし」
 ガールが最後のひと切れを飲み込んでから言った。カエデは唸ることしかできなかった。
「あまり納得していなさそうね……じゃあ、こういうのはどうかしら」
 ガールが得意げに笑ったかと思うと、カエデに向かって人差し指を突き出してきた。
「ます、次の大会で必ず優勝する。そこでインタビューがあるはずでしょう? そこで、見ている人たちに向かって今のナワバリバトルの現状をアピールするのよ。そしたら、バトロイカも無視できないし、皆も賛同してくれるに違いないわ」
 ガールがどうだ、とでも言いたげに胸を張る。カエデはしばらくガールを見つめていたが、その後目を輝かせてガールの肩を掴んだ。
「アンタって天才! 最高!」
 ガールを揺さぶって、褒めちぎる。ガールがびっくりした様子を見せた後で、嬉しそうに笑った。
「決まりね。勿論、カエデは優勝しなくちゃいけないから、練習は今まで以上に頑張ること。それと……」
 ガールがスパッツのポケットから何かを取り出すと、それをカエデに手渡した。
「私からのプレゼント。お守りじゃないけど……良かったら」
 カエデは紐を掴んで持ち上げると、ジッと見回した。手のひらに収まるサイズのインクタンク。その中には、黒インクが八分目ほどまで入っていた。
「私も応援しているわ。だから……カエデは思う存分、全力を尽くしてきて」
「あぁ、分かってる……ありがとな!」
 カエデはニッと笑うと、アクセサリーを首からかける。ガールが頷いて、微笑んだ。
 立葵は変わらず、彼女たちの背を覆うようにして、そこにあった。


 

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