EPISODE:08
その日、黒い花が咲いた。夜空のような漆黒の花弁に、指先がそっと触れる。
その花の名は――――。
「オラアアアアアァァァ!!」
ここはショッツル鉱山。カエデたちは明日に控えた大会のため、連携を再確認している最中……のはずだった。
「や、やたら気合入ってるね……カエデ」
ヒメリが恐れ入ったような口振りで言った。
「そうか……? いつも通りやってるつもりなんだけどな」
カエデ自身、口先ではそう言ったものの、ここ数日はかつてないモチベーションで練習に参加していた。
「今回は小規模な大会ではあるが……やる気があるのであれば、それにこしたことはない」
シダレが自陣正面の高台に立つ。カエデはベルトコンベアーの上に片手をついてしゃがむと、ニヤッと笑った。
「さーて、仕上げに相手をイカソーメンにでもしてやるかな!」
流れる地面の上で、勢いよく前に飛び出す。敵陣に乗り込んだ時、相手のひどく驚いた顔が見えた。カエデは迷うことなく引き金に手をかけ、銃口を敵のアタマに向けた。
夕暮れになり、カエデたちのチームはいつものように解散した。カエデはブイヤベースを見に行かないかというヒメリの誘いを断り、広場の外へと駆け出した。
若干息を上げながら川辺についたところで、立葵を少し押しのける。すると、見慣れた背中がその影から覗いた。
まただ…………。カエデはボロボロの格好をして膝を抱いている、黒いガールのアタマを撫でる。
「誰にやられた?」
カエデの問いに、ガールは啜り泣きをするばかりだった。手や脚のあちこちに、痛々しい青痣が残っている。「……いつもと同じ人」。ガールが顔を埋めたまま、詰まったような声を発した。
「もうここに来ない方がいいんじゃないのか? アタシは寄り道もできるし、もっと人目のつかないところにでも……」
カエデはそう提案したが、すぐにガールが首を振った。
「今までも色んなところでこんな目に遭ってきたの……今更別の場所へ行ったって、何も変わらないわ」
ガールが顔を上げずに言った。でも……カエデはそこまで出かけて、寸前で止めた。日に日に酷くなっていくイジメは、カエデがいない間に行われている。
だったら、アタシが少しでも長くいてやれば……。
「……明日の大会が終わったら、アタシの家に来なよ。それで、アイツらがやってきたら、アタシが返り討ちにしてやる」
カエデはそう言って、無理矢理笑ってみせた。ガールがカエデを見ると、「うん……」と何かが込み上げるのを抑えるように、頷いた。
「お菓子沢山用意しとくからさ。しばらくはいてもらっても構わないから」
「で、でも……それは流石に悪いわ……」
「いいさ。無駄にナワバリバトルだけはやってるせいで、オカネには困ってないし。アンタと生活できるくらいの費用なら今でも稼げてる」
カエデは立ち上がると、「それじゃ、また明日」と言ってその場を後にしようとした。
「カエデ!」
後ろでガールが呼び止める声がする。振り向くと、ガールが笑っていた。
「……本当にありがとう。それと明日の試合、カエデを信じてくれている皆のためにも、頑張って」
ガールの眩しい笑顔。カエデは心の底から笑う彼女を、今まで見たことがなかったことに気づかされた。だからこそ、つられてしまったのかもしれない。
「ああ。絶対に優勝して帰ってくるよ」
カエデはオクタグラスに手をかけて、笑みを向ける。いつものように、ちょっと意地悪そうで、無邪気なままで。
立葵は昨日より、少し屈んでいるようだった。
そう、その時は、『次の日』があると――――今までそうだったように、何食わぬ顔でやってくるものだと思っていた。
はち切れそうな鼓動。誰かの叫ぶ声が聞こえる。手に持った金色のホコが、熱い。
「叩き込め!」
その声は、カエデの鼓膜を貫いた。
「終わりだあああああああ!!」
背中を反り、バスケットのダンクシュートよろしく振りかぶる。小さな山を模した台の平たい頂上。そこに自分のアタマよりも大きなホコを文字通り「ブチ込んだ」。
つんざくようなホイッスル音。敵が眼下で地面に膝をつく。カエデが振り向くと、シダレが頷いて、微笑を見せた。
『試合終了! 優勝は――――』
アナウンサーの言葉がかき消されるほどの大歓声。真っ先に、ヒメリが駆け寄って抱きしめてくれた。
「カエデ……すっごくイカしてたよ!!」
ヒメリが耳元でそう言うのを聞いて、カエデもギュッと抱きしめ返した。
「すぐにイカスツリー前へ向かうぞ。進行が若干遅れているらしい」
待機室に戻るなりシダレが指示を出す。まだチームの興奮は冷め止まず、カエデもオキナやヒメリと今日の試合についてやや早口になりながら、夢中で話し込んでいた。
「来たぞ!」
イカスツリーの外へ出るなり、観衆からそんな声が聞こえてきて、カエデたちは瞬く間にイカたちのムレに囲まれた。
「信じられないや……いつも遠くから見てた風景の真っ只中に、オレたちがいるなんて」
「そうだよね。カエデと知り合うより前に優勝したときはそれどころじゃなかったし……こんな経験、滅多にできないよ」
オキナとヒメリがイカたちを眺めながら言った。シダレはというと、既に運営側のイカに取り囲まれて話を受けている。こんな時でも至って冷静で、ひょっとしたら鬱陶しいとすら思っているのかもしれないな、とカエデは何となく思った。
「決勝で見事勝負を決めたガールさん、できれば一言お願いします!」
突然、1本のマイクがカエデに向かって伸びてきた。カエデは最初、それをまじまじと見つめていたが、フクの中で揺れたアクセサリーが、ガールの言葉を思い出させてくれた。
「アー……アタシが今回の大会で優勝を狙っていたのは、ハイカラシティの外に出て行ってしまった人たちに、もう1度ナワバリバトルの楽しさを思い出してほしいと思ってたからだ」
咳払いをしてから、慎重に話し始める。観衆がどよめき始めた。
「最近、初心者だからとか、ウデマエが低いからってだけで嫌がらせされてるヤツが増えてるってよく聞く。そのせいで、みんなイカスツリーから離れていってるんだ……でも、ナワバリバトルはそれだけじゃない。だから、この話を聞いて何かが変わるきっかけになればいいな……なんて」
照れくささのあまり、カエデは頬を掻いた。しかしその一方で、イカたちは皆ぽかんと口を開けてカエデを見るばかりだった。
「あ、あの……できれば先ほどの試合のことをお聞きしたいのですが……」
「えっ? あ、ああ! そうだな……最後の方はとにかく必死で、正直何も覚えてない……です…………」
目を泳がせてそう言った途端、マイクが別の方向を向いた。
「はい、じゃあ今度はリーダーさんに――――」
アナウンサーのイカがシダレに話しかけようとしたが、彼(の目つき)がウツボか何かだとでも思ったのだろう。目が合うとすぐに踵を返した。
「――――じゃなくて、先に他のメンバーに聞いてみましょうか!」
アナウンサーが慌ててヒメリにマイクを差し出した。ヒメリも不意を突かれたのか、首を横に振ったかと思うと、真っ赤になる。カエデとオキナは顔を見合わせると、思わずニヤッと笑った。
「今日は本当に楽しかった! また明日から頑張ろう!」
ヒメリが胸の前で拳を作る。首からは小さな金色の優勝メダルがぶら下がっていた。一方で、シダレは困ったように顔をしかめつつ、口を開いた。
「ヒメリ、考え直してくれないか。いや、つまりだな…………」
シダレが上手く言いくるめようとするものの、ヒメリはそれを聞いている気配すらない。どうやらヒメリが晩御飯を作ると宣言したらしいが……彼女の思わず背筋が凍るような料理については、カエデとオキナも体験済である。
「お兄ちゃんの好きなもの作るからね。あと、いつもは質素なものばかり食べてるし、今日くらいは――――」
諦めたのか、はたまた自分が普段仕方なく作っている料理を「質素」と言われて落ち込んだのか。シダレが珍しく大きなため息をついた。
「もうこんな時間か……」
カエデはイカスマホに表示された数字を見て言った。ブイヤベースの奥から差す夕日が、画面の端に映っている。
「アタシはそろそろ行こうかな。それじゃ!」
カエデは手を上げると、広場の出入り口へと1人歩き始めた。
「明日は練習あるからなー!」
オキナが大きな声でそう言った。カエデは「分かってるって!」とだけ告げ、角を曲がる。駅を通過した先には、オレンジ色のビル街が佇んでいた。
夕日は、やがて紅に色を変えた。
息が荒い。
これは、何?
芝の上に転がっているそれは、あまりにも無残で、儚かった。
思考が追いつかない。
ダメだ、ダメだ。
散らせちゃ、いけない。
「すぐ、助けてやるからな……!」
カエデはやっとのことで、その言葉を絞り出した。その腕には、身体中に切り傷を負った、黒いガール。
「カエ…………デ……」
「黙ってろ! オマエが喋ったら……」
ガールの手が、カエデの袖を握る。そこから、真っ黒なインクがポタポタと垂れた。
「もう……いいの…………カエデも、分かってるでしょう――――?」
ガールが弱々しい声で言った後、笑った。それは、あの時の、心から嬉しそうな笑みで。
「私ね……カエデに会えて…………それだけで、救われたの。あなたの笑顔や……声、姿、心……全てが、大好きだった…………」
ガールが目尻を下げる。カエデはさらに抱き寄せる。腕は焼けるような感覚を伴い始めていたが、気にも留めなかった。
「昔はナワバリバトルもしたいとか、皆と同じことができるようになりたいって思ってた……でも、今はカエデと一緒にいられれば、それでいい。本当に、それだけだったのに……運命って、酷いよね……?」
突然、ガールの目から涙が溢れ出した。
「どうして……こんなに早く、お別れしなきゃいけないのかなぁ…………?」
ガールの頬に、新たな雫が落ちる。カエデの瞳もまた同じように、濡れていた。
「アタシが、もっと気にかけていれば…………守ってやれば……!」
嗚咽で声が押しつぶされる。しかし、ガールがゆっくりと、顔を横に振った。
「カエデは何も、悪くない……だから、もう、泣かないで……」
ガールが再び、微笑を見せた。涙は絶えることなく、流れ落ちていく。
「これは、私からの……最後のお願い………………カエデは、笑っていて……この先も、ずっと…………私はもう、あなたの優しさに触れられないけど……私のような目に遭っている人のためにも……それはずっと、持っていて欲しいの…………」
ガールの手が、カエデの頬を撫でた。カエデは1度、強く唇を噛んだが、次第に口の端を上げた。
「まったく……最初に泣き出したのは、どっちだよ」
震える口元をそのままに、カエデはガールに笑いかけた。それで、彼女が救われるのなら……もしも、消えないでくれるなら…………その、一心で。
「それも…………そう……ね…………。――――」
ガールがそう言って、長く息を吐く。その手が力なく落ちていった。
願いは、枯れた。
「待てよ……なぁ…………!」
ガールの身体を揺さぶっても、返事はない。うっすらと開いた目は、2度とカエデを見つめることはなかった。
「あ……あァ………………!」
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ――――
嘘だって…………言ってくれ……!
自分の涙も叫び声も、遠くのことのように思えた。もう、何も分からない。ガールは、いなくなった。その現実だけが、カエデの胸に突き刺さっていた。
周囲が騒がしい。
もう、放っておいてくれ……。
「いかなる理由があっても、黒インクは迂闊に触ってはいけない」
気がつけば、白い空間にいて、白衣を着た誰かにそう言われて。虚ろな目を下に向けると、包帯を巻かれた自分の手があった。
どうやら、カエデの声を聞きつけたイカが救護してくれたらしい。あの子は、と聞くと、白衣のイカは警察が、とだけ言った。
「まさか『メラニズム』個体に取り入れられるとは……君も随分、悲惨な目に遭ったね」
医者のそんな言葉を思い返しながら、カエデは夜道をフラフラと歩く。ガールのことを蔑む者と同じ空間にいることなど、耐えられるはずがなかった。医者もそれを止めることはなく、ただ胡散臭い目をカエデに向けただけだった。
「今日は……新月だな」
カエデはぽつりと、そんなことを呟く。流れ星が見えた時、涙が1粒、こぼれ落ちた。
習慣というのは末恐ろしいもので、翌日であっても普段通りの時間に目を覚ました。
ベッドの上で膝を抱き、ボーッとしたアタマで昨日のことを思い出す。時計の針のカチコチという音が、痛い。手に巻かれた包帯を見るまでは、悪い夢だったんだという気さえしていた。
朝食に手をつけることもなく、おぼつかない足取りで外へ出る。行き先は決めていなかった。否、決める必要がなかった。
立葵の咲く川辺で、足を止める。そこにガールの姿は、ない。
堤外に下り、立葵を正面から見上げた。そして、その場に膝をつく。啜り泣きが、朝の冷気を伝った。
「ゴメン……な…………」
遅すぎたんだ。カエデは自分を呪った。俯くと、腿の上に涙が落ちた。
その時、ふと視界に何かが映り込む。カエデは霞んだ視界の中、それを拾い上げた。
それは、引きちぎられた黒いブレスレットだった。
――――また、あいつが来たの……今度は殴るだけじゃなくて、切るぞって。私、怖くて…………。
カエデは、身体に電撃が走るような感覚を覚えた。ブレスレットを握り締めると、揺らぎながら立ち上がる。
アイツが……アイツらが…………!
カエデの瞳は、かつてない憎悪を含み、虚空を刺すように睨んだ。
賑わうハイカラシティで、カエデはその時を待ち続ける。イカスマホは左手に握られ、ひっきりなしに振動していたが、その手を上げることはしなかった。
路地裏近くで、ひっそりと様子を窺う。彼らは無法者として以前からバトロイカに目をつけられていたため、居場所はすぐに分かった。
いた。カエデはイカスマホを顔の近くに寄せると、認証機能を起動する。すぐ近くを通り過ぎた彼らは、カエデの存在に気づいてすらいないようだった。
カメラにその姿が映った瞬間、画面上に情報が表示される。それは、カエデの知っている情報と完全に一致していた。
カエデはイカスカルマスクを口元まで上げると、彼らの後を追った。
彼らは耳障りな笑い声を上げながら、レギュラーマッチの待機室へと入っていく。案の定、そこは初心者ばかりが集まる部屋で、彼らの目的はすぐに察することができた。
「ゴミは処分してやらなきゃなぁ……?」
そう言ったボーイの腕を見ると、ブレスレットが無い。当然だ。それは、カエデが川へ捨てたのだから。
初心者たちはその言葉に怯え、部屋の隅で縮こまっている。自動ドアは既に閉じ、『マッチング完了』の文字が表示されていた。
「あらぁ、ランク50サマが1匹、紛れ込んじゃってるわ」
ボーイの取り巻きの1人、ガールがわざとらしく手で口元を覆った。その後ろでは、別のボーイ2人がケタケタと笑っている。
「おやおや、こんな部屋に入ってくるとは……弱い者を守る正義のヒーローって、本当にいるんだねぇ」
笑っていたボーイの1人が、カエデを見た。カエデは正面を見つめたまま、ただひたすらに、その時を待つ。
先頭のボーイが口を開きかけると、部屋が白1色に染まる。そうしてすぐに、Bバスパークのリスポーンデバイス上へと転送された。
「僕たち、どうすればいいのかな……」
カエデの味方に選ばれたのは、3人の初心者。しかし、今はその条件すら眼中にない。
「もしアタシがアイツらと接触したら……目を、瞑っとけ」
カエデはそれだけ告げて、ボールドマーカーネオを構える。その瞳は、獲物を狙う鮫そのものだった。
これは、アタシの……アタシらの、『復讐』だから。
そんなことが、言えるはずもなかった。
彼の首を締めた感覚が、彼らの恐怖に見開かれた目が、脳裏に焼き付いていた。
イカスツリーから出ると、どよめきが辺りを包み込んだ。
「君、待ちなさい!」
警備員らしきイカが、カエデの腕を掴む。しかし、カエデは警備員を睨んで退かせた。
たじろぐ警備員の腕章には、バトロイカのマークが刻まれている。そういえば、あの医者も、ガールを連れて行った警官も、こんなマークを身につけていた。
「アンタらは、何も分かっちゃいない」
カエデは軽蔑の眼差しを向けた後、広場の出口へ向かおうとした。
「カエデ!」
再び、腕を引かれる感覚。その手は、見覚えがあった。
「……ヒメリ」
カエデは振り向くと、その名を口にする。そこには目を見開き、ひどく驚いた様子のヒメリと、愕然としているオキナ、そして……シダレが、いた。
「ずっと連絡がつかないから、探してたんだよ? そしたら、モニターにカエデの姿が映って……ねぇ、どうしてあんなことを……?」
ヒメリの声は震えていた。カエデはイカスカルマスクを口元から外すと、真正面からヒメリを見つめる。だが、声は発さなかった。
「答えてよ!」
沈黙の後、ヒメリが叫ぶ。その表情は苦悶に満ちていた。
「……復讐だ」
カエデは低い声で呟いた。ただ、ありのままのことを。それを聞いて、ヒメリが息を止めたようだった。
「……お前が、あいつらにどのような恨みを持っていたのかは知らん」
シダレがヒメリの肩に手を置き、後ろに下がらせた。カエデは、彼の眉間に皺が寄っているところを、見逃さなかった。
「何が言いたいんだ?」
挑戦的な口調で、シダレを睨んだ。シダレがゆっくりと目を閉じる。次に見た桃色の瞳は、怒りに満ちていた。
「如何なる理由があろうとも……お前は、間違っている」
今度はカエデが目を見開く番だった。思わず、腕に力が入る。包帯に、黄緑色の染みが広がった。
ああ、やっぱりコイツは――――正真正銘の、クソジジイだ。
「そうか。アンタは、そういう目で、アタシを見るんだな」
そう言ったカエデの胸に、憤りなんてものはなく、ただ、蔑みから生まれた笑みが溢れた。
「でも、これでよく分かった……アタシはいつも、スカした顔で正義ヅラしてるアンタのことが、大ッ嫌いだ!」
微笑みはやがて、憎悪の表情へと変わる。シダレが何か言おうとカラストンビを剥き出してきた時、カエデはヒメリの手を弾いた。
「……! 待って、カエデ――――!!」
そんな声が、カエデに届くわけもなかった。
このセカイは、狂っているんだ。
ハイカラシティを出て行った者たちのことも、あの子のことも。
誰がこんな居場所を望む?
この居場所を作ったヤツらは、皆見て見ぬフリをする。
だから、全て洗い流して、変えてしまおう。
そしたら、また心から笑えるかな?
いいや……。
「ここにはもう、『アタシ』はいない」
川辺に咲く立葵の1つが、黒い花弁を開く。
その花には、意志と、願いを。
白い指先が、花弁にそっと触れる。
さようなら、そして、はじめまして。
花に誓う『アタシ』が、笑った。
「いいのか? そんなことをすれば、即刻反乱分子とみなされるぞ」
研究員らしきイカが怪訝そうな顔をする。その左手には、手中に収まるほど小さな、空っぽのインクタンク。そして右手には、真っ黒なインクで満たされた、ナワバリバトル用のインクタンクの紐が握られていた。
「ま、それもそうだな」
イカスカルマスクを首にかけたガールは、2つを受け取った。その顔には、不敵な笑みを浮かべている。
「けど……その反乱分子が大勢いたら、どうなると思う?」
ガールは挑発的な視線を研究員に向ける。研究員もフッと笑った。
「そうか……なら、止めはしない」
研究員は「このインクの補充なら、イカスツリーの管理室でも行えるはずだ」とだけ言って、その場を去った。ガールの背後では、無数の目が暗闇の中で光っていた。
さぁ……始めようか。
ガールは小さなインクタンクを首にかけ、通常のインクタンクの紐を肩にかけた。
「アタシはアオイ。今から、アタシたちは『クロサメ』として活動する。そこで、最初の目標だけど――――」
ガールが左胸のロゴを指し示す。黒い傷のような跡が、その下のマークをかき消していた。
「まずはこの黒インクに慣れてから、スポンサーイベントの妨害、交通機関の遮断を立て続けに起こす。そして……最終的には、イカスツリーを制圧するつもりだ」
アオイの言葉に、周囲からは戸惑う声が聞こえる。
「そんなこと、できるのか?」
誰かが問うた。愚問だな、とさえ思いながらも、アオイは笑う。
「勿論。……このインクがあればな」
アオイはインクタンクを持ち上げる。
「つべこべ言う前に、試してみたらどうだい? もっとも、尾ヒレ巻いて逃げるってんなら、話は別だけど」
冗談交じりにそんなことを言ったものの、誰も身を引こうとはしなかった。
「各自、インクタンクを取ってきな。悠長なことをしていられる時間は無いから、なるべく早く事を済ませるよ」
その日から、ハイカラシティには奇妙な噂が流れた。何でも、真っ黒なインクを使う集団が、各所で暴れまわっているんだとか。
そんな馬鹿なことが、あるわけないだろうけど。きっと、都市伝説さ。
……本当に、そうだろうか?
にわか雨だったはずの天気は、次第に長引いていく。
そして……。
『○月×日。イカスツリーが、何者かによって占拠されました』
「これは、『革命』だ」
イカスツリーの下で、黒いガールが、笑っていた。
「――――とまぁ、こんなことがあって、今のクロサメができたんだよ。アタシが言いたかったのは、それだけ」
アオイは笑いながら言うが、周囲の反応はいたく冷え切っていた。というよりも、何を言ったらいいのか分からないという感じだった。
「アー……じゃ、そういうことでアタシの話はおしまいだから。ほら、解散っ!」
アオイはソファから立ち上がると、自室へと戻る。その後ろから、イカが複数名ついてきていることにも気づいていた。
「あの……リーダー、怪我の方は大丈夫……?」
ショートビーニーを被った紫色のガール――――エリーが小さな声で聞いてきた。
「ん? ああ、問題ない。まぁ、ちょっとヒリヒリするけど」
アオイはそう言いつつ、自然を装って患部を隠す。エリーと他のイカたち――――ルミネ、フィアールカが顔を見合わせた。
「次の作戦はどうするんですか? まさか、参加はしないですよね……?」
「何言ってるんだ、出るに決まってんだろ。今回のなんて、大したことでもないのに」
「で、でも……リーダーさん、きっと大変だと思うのです」
2人に諭され、アオイはアタマを掻く。
「ああもう、だから心配しなくていいって――――」
「こんな状態で何処に心配しない奴がいるんだよ」
アオイの話を遮ったのは、ジップアップカモの前を開けて着こなしているガール――――Beeだった。
「それともベッドに縛り付けでもしなきゃ、言うことも聞けないのか?」
Beeの有無も言わさぬ口ぶりに、アオイも思わず黙り込む。見えない位置で、拳を握った。
「誰だって、仲間にはいなくなって欲しくないって思っているのです! リーダーもそう言っていたのです!」
「それに……ここで無理したら、リーダーの言うガールさんのことも、全部無駄になっちゃうかもしれないですよ」
ふと、目を上げる。皆、困ったような、悲しそうな表情をしていた。そうか……悪い癖って、このことか。アオイは再び笑うと、指先で頬のガーゼに触れた。
「ゴメン、アタシの方が身勝手だった。皆の言うとおり、少しの間は休むことにするよ」
それを聞いて、ホッとしたような顔をする4人。アオイもゆっくりとため息をついた。
「じゃあ、すぐに医務室に来いよ」
「分かった。その前に、ちょっと甘いもの食わせてくれないか。黒インク使ったあとはどうしても食べたくなるんだ……」
アオイは説明をして、部屋の隅に置いてあった冷蔵庫を開ける。そこから板チョコを取り出すと、アルミの包装を一部だけ剥いで口にくわえた。
「そういえば、リーダーの言っていたガールって、甘いものが好きだって……でも、リーダーは甘党じゃ無かったような……」
「ということは……まさか、リーダー…………?」
エリーの話を聞いて、ルミネが驚いたような素振りを見せた。しかし、アオイはニヒヒッと笑って、板チョコを割っただけだった。
「私ね、この花が好きなの」
ガールが、川辺の花を撫でて言った。
どうしてと聞くと、彼女は立葵という花の名前だけを教えてくれた。
「いつか、この名前に負けないように、私も同じくらい背伸びがしてみたいな……なんて」
そう言って照れくさそうに笑う顔を向けた。
あの子は、アタシに笑っていてと言ってくれた。
それが、唯一の願いだと。
アタシも、1つだけ願いがあるんだ。
それは……その色が、ナワバリバトルで使われること。
この先もずっと、忘れられないように。
アタシも、その名を忘れないように。
ただそうして、自分に、刻んだ。