EPISODE:09
ハコフグ倉庫及びモンガラキャンプ場争奪戦から、既に1週間が経つ。シロツキの本拠地、デカライン高架下近郊のビル。その1階には、慌ただしく駆け回っている、オレンジ色のガールがいた。
「クロサメのリーダーが、活動を再開したとの情報が入りました。各自一層、防衛に尽力するようお願いします」
ヒメリは慣れない指示を出しながら、資料にも目を通す。顔の横を、一筋の汗が伝った。
「うちは何すればいいかな?」
「えっ? あ、はい……! いちじくさんには1度、モズク農園の方へ応援に行ってもらって…………」
メンダコを模したレインコートを着たガール――――いちじくに話しかけられたことに驚き、やたら高い声で返事をした。
「アメちゃんくれそうな予感がするから、ころんも行くのですー!」
「うん、一緒に行こ!」
小さな緑色のガール――――ころんを引き連れ、いちじくが意気揚々とした様子でその場を後にした。
ヒメリはホッと胸を撫で下ろしてから、手に持った資料のページを捲る。兄のシダレが書いたであろう文字は、不可解な注釈ばかりを繰り返していた。難解であることは承知の上だが、それでも思わず、己の無力さにため息が出そうになった。
「やぁ、精が出るね」
ふとそんな声がして、顔を上げる。そこには、スクリュースロッシャーを小脇に抱えてこちらに向かい手を上げているボーイ――――スロッシュと、ピンク色のボーイ――――シロウがいた。
「リーダーの様子は?」
シロウの問いに、ヒメリは首を横に振った。
「まだ、駄目みたいです……今回ばかりは、怪我の方も重かったですから」
ヒメリは俯き気味に呟く。スロッシュとシロウが顔を見合わせた。
「ま、今はゆっくりしてもいいんじゃないかな。無理されたら困るし」
スロッシュがわざとらしくそう言うと、ヒメリの横を通り過ぎようとした。
「……こうしている内に、あまりよくない噂が蔓延っているけど、ね」
すれ違いざま、ヒメリの耳元で囁く声。振り向くと、既に2人は通路の角を曲がっていくところだった。
「なぁ、リーダーってやっぱり……」
「おい、ここで話すことじゃないって言っただろ!」
背後から、密やかな言葉のやり取りが聞こえたかと思うと、慌ただしい足音が遠のいていった。ヒメリは唇を噛み、キュッと拳を握る。
分かっている。だけど……。顔を上げ、ドアの方に目をやった。
ハコフグ倉庫でアオイと対峙してから早1週間。それまでの間にシダレがその部屋から出たことは、ただの1度もなかった。
――――青白い月が見下ろしている。虚ろな視界の隅に、トレッキングカスタムのクツ先が垣間見えた。口を開けど、言の葉は出ず。空気が喉を通り抜けるばかりだった。
笑う顔も、そして先の怒りに満ちた顔も、本質は同じことのように思えた。
アタマの左側が、冷たい。否、熱を帯びているのか?
感覚が、その姿が、意識が。全て、全て、遠のいていく。
霞む中、振り向く黒と目が合った。歪んだ笑みが、脳裏から離れない。
意識が落ちる瞬間、見えない手が自分の顔を鷲掴んだ――――。
不意にガチャッという音がして、我に返る。右手の指先が額や頬に、痛いほど食い込んでいた。
「お兄ちゃん」
声が聞こえて、右手を下ろす。そして、ベッドの端に腰掛けたまま、ゆっくりと後ろを向いた。閉じたドアの前に、妹のヒメリが立っていた。
「……敵のリーダーが戦線に復帰したって。皆、一所懸命防衛に回ってくれてるよ」
しばらくその場に佇んだ後、ヒメリが沈黙を破った。シダレは一言も発さず、ヒメリの歩く姿を目で追う。
「お兄ちゃんのハイドラント、掃除しとくね。埃被ったら、調子悪くなるって言ってたし」
ヒメリがそう言うと、タオルを持ち出して、ハイドラントの前にしゃがむ。シダレはその様子を黙って見ていた。
「医療班の人がね、治療させてくれないって困ってたよ。私も怪我の治療についてはそんなに詳しくないし……早く治したいなら、ちゃんと診てもらってよね」
ヒメリが手を止め、シダレに顔を向けると、困ったように笑った。妹の作り笑いはここ最近、増える一方である。原因も、何となく分かってはいた。
「…………敵リーダーは、何処のリスポーンデバイスを狙っている」
少し前の話を思い出し、シダレはそんな問いを口にした。
「それは……分からないよ。だって、お兄ちゃんがいつも、相手の動きを予測してたから」
ヒメリがハイドラントを拭いて、背を向けたまま言った。「そうか……」シダレはそれだけ呟くと、立ち上がった。
「後は俺がやっておく。お前は自分のブキのメンテナンスを……」
そう言いながら隣まで来ると、ヒメリが持っているタオルを引く。しかし、ヒメリがそれを離そうとはしなかった。
「ヒメリ……?」
シダレは若干眉をつりあげて、ヒメリを見る。一方、ヒメリはハイドラントを見つめ続けていた。
「……昨日も、一昨日もそんなこと言って、結局やらなかったよね」
その顔からは一切の感情も読み取れない。兄のシダレですら、そんな様子の妹を今まで見たことがなかった。
ふと、喉が圧迫されたような感覚を覚えた。
「今日は、やっておく。だから……」
「『今日』は? それじゃあ、次は何時なの?」
シダレはもう一度、ヒメリの指先に触れようとした。今度は半ば強引に取るつもりだったが、先にかわされる。
「からかうのもいい加減に……」
思考よりも先に言葉が出、その場に立つ。本能的に紡がれた羅列が、あまりにも聞き慣れたもので、同時に背筋が凍るようだった。
「……からかっているのは、お兄ちゃんの方でしょ!」
ヒメリの口から強く発された答えは、シダレの想像していたそれとは異なった。当然だ。何故なら、ヒメリは『彼女』ではないのだから。
「どうしてまだ、気づかないフリをしているの?」
今度はヒメリが立ち上がって、シダレを見る。
「何の話を――――」
「皆、お兄ちゃんの話ばかりしているじゃない! 本当は……敵のリーダーと……カエデと…………そんなこと……」
ヒメリが『カエデ』という名を口にした途端、部屋内が急速に冷え切ったように思えた。
「あいつの名前を……出すな……!」
食いしばったカラストンビの隙間から、声が漏れる。俯いていたヒメリが、ハッとしたように顔を上げた。
「……すまない。1度落ち着く」
シダレはヒメリに怒りをぶつけてしまったことを半ば後悔しながら、踵を返した。
「ねぇ、どうして……何をそんなに、怖がっているの?」
ハイドラントにかけようとした手が、寸前で止まる。自分でもハッキリと分かる程、目は見開かれていた。
「……違う」
鼓動が喉を押し潰す。嫌な汗が、首筋を伝った。
「お兄ちゃん……」
「違う」
苛まれているような気さえしていた。
「だってそうでしょう? 今のお兄ちゃんは……」
「違う!!」
鋭く声を発した後、振り向く。無意識の内に、手が力んでいた。
心の底では駄目だと、やめてくれと、叫んでいた。
相反するように、手が上がる。身体中が、寒い。これから自分がしようとしていることが、何よりも恐ろしかった。
しかし、その手が振り下ろされることはなかった。パンッという乾いた音。次に、左の頬へ衝撃が走る。
「…………っ!」
理解が追いつかないまま、ヒメリを見る。彼女は右手を上げたまま、ポロポロと涙を流していた。
「……お兄ちゃんの、ばか……!」
突然、ヒメリがドアに向かって走り出した。
「……! 待て、ヒメリ!」
シダレも後を追い、ドアへと向かう。ヒメリが開け放した先へ飛び出した時、大勢の視線を感じた。
「リーダー」
氷のような声が、シダレを呼び止める。シダレは思わず、足を止めた。
ヒメリの背が遠のいていく。周囲は騒ぎを聞きつけたらしい、シロツキのメンバーたちでごった返していた。
「やっぱり、そういうことなんだろ」
「おい、よせ……」
目の前で、バックワードキャップを被った黄色いボーイ――――テカギが、怒りに満ちた表情をシダレに向けていた。
「僕たちは本気でナワバリバトルを取り戻すために、シロツキに入ったんだぞ!」
テカギの言葉が、アタマの中で響く。今や飛びかかろうとしたテカギを、数人のイカたちが取り押さえようとしていた。
「君とクロサメのリーダーが旧くからの知り合いだということは、先の争奪戦の話から分かっている」
怒号が響き渡る中、横の方からボーイのような用紙をしたピンク色のガール――――ナナホシが一歩前に出てきて、話し始めた。
「そしてあの日以来、リーダーはシロツキの指揮を取ることも、作戦を練ることもなくなった。リーダー、君は一体……何のために、シロツキを立ち上げたんだ?」
辺りに痛いほどの沈黙が立ち込める。左頬は、未だ熱を帯びていた。
そうか、だからヒメリは……。シダレは右手を強く握った後、そっと解いた。
「何処に行かれますの?」
メンバーたちの視線に臆すことなく歩き始めたシダレに、イカンカンクラシックを被った赤オレンジのガール――――イマリが尋ねた。
「先にヒメリを探す。それと、頼んでおきたいことが1つある」
シダレはイマリを、そしてシロツキのメンバー全員を見渡した。
「シロツキの総員をここへ集合させて欲しい。戦闘へ出た者、各拠点にいる者、全てだ」
「で、集まったら何をするんだ?」
スプラッシュゴーグルを装着したピンク色のボーイ――――ブリックが問うた。
「……皆に話しておきたいことがある。シロツキの今後にも関わることだ」
シダレはそれだけ言うと、その場を立ち去った。
ヒメリは出撃用ガレージの隅で膝を抱き、そこに顔を埋めて座っていた。
最初はただ、一方的に勘違いされ、自分の兄が目の敵にされている状態が悔しかった。それがいつの間にか、全く状況を改善しようとしない上に、過去を否定しようとする兄への怒りに変わってしまっていた。平手打ちをし、ここに来た後で、ヒメリは自分のした行為の浅はかさを呪った。
――――私が精一杯、サポートする。シロツキを結成した後、最初にシダレへかけた言葉。結局自分は、1番大変な時に、何もできなかった。
「私って、最低だ…………」
ヒメリは小さな声を漏らした。薄暗いガレージ内では、返ってくる言葉もなかった。
「ヒメリ」
少しした後、自分を呼ぶ低い声が聞こえて、ヒメリはゆっくりと顔を上げた。
「お兄ちゃん……」
目の前に立っていたのは、シダレだった。呼びかけには答えず、黙ってこちらを見下ろしている。光の少ない部屋では、上手く表情を読み取ることができなかった。
「……さっきは、ごめんなさい」
沈黙が怖く感じて、思わずそんなことを口走った。すると、シダレがしゃがんで右腕を上げる。ヒメリは次に起こることを想像して、咄嗟に目を瞑った。
「……俺の方こそ、すまなかった」
しかし、シダレの反応は、予想とは大きく異なった。自分のアタマに乗せられた手。ヒメリはハッキリとそれを感じ、驚きのあまり顔を上げた。
「シロツキの現状を把握した上で、1つ提案がある。聞いてくれないか」
シダレが横に移り、座り直してから言った。ヒメリは膝を抱いたまま、こくと頷く。
「シロツキの団員たちには、全てを話さなければならないと悟った。それは長としての信頼ということもあるが、今後のシロツキの在り方を定めるという点で、最も重要なことになると考えている」
「お兄ちゃん、それって……」
ヒメリはおのずと、視線をシダレの方に向けた。正面を向いたままのシダレが目を閉じ、長く息を吐いた。
「問題ない。全て、己で決めたことだ」
シダレが言った。自分に言い聞かせているようにも見えた。
「当然、お前のことも関わってくる。嫌だというのであれば……俺も黙っておく」
それを聞いて、ヒメリは首を横に振った。
「私はいいよ。でも……」
「そうか。ではすぐにでも、皆に話すとしよう」
ヒメリが言い切る前に、シダレが立ち上がろうとする。あまりにも飄々とした態度。それが意味することも、ヒメリにはよく分かっていた。
だから……ヒメリも立ち、手を伸ばした。
「お兄ちゃん」
歩こうとするシダレの裾を引く。ずっと昔からやってきた、2人だけの合図。
「何だ、ヒメリ――――」
けれど、これは初めてだったかな。シダレが怪訝な顔をして、振り向く。瞬間、ヒメリはシダレの胸に飛び込んだ。
「大丈夫。誰が何を言っても、私はお兄ちゃんと一緒にいるから」
独りで怖がる必要なんて、ないんだよ。その気持ちは、抱き寄せることで示した。
「…………ありがとう」
シダレが抱き返すことはなかった。それでも、その言葉だけで、ヒメリには十分伝わった。
「全員、揃っているか?」
窓から眩しい光が差し込み、拠点内をオレンジ色に染めている。拠点出入り口前、大広間は大勢のイカたちで窮屈そうだった。
「外に出ていた者たちとは確認が取れている。無断での出撃をしていない限りは、皆いるはずだ」
長い紺色のイカ足が特徴的なボーイ――――アキトが答えた。シダレは頷くと、広間を見渡す。
「先にも言ったように、これから話すことはシロツキのこれからにも関わることだ。皆には注意深く聞いておいて欲しい」
後ろでフクを少し引っ張られるような感覚。右隣には、ヒメリがいた。
「まず、事の整理をしよう。主に敵のリーダー――――アオイと、俺との関係についてだ」
周囲がどよめき始める。シダレは手を挙げて、それを制した。
「俺の知っている彼女は『アオイ』ではない。『カエデ』という、元は同じチームにいた者だ。彼女はある日を境に、人が変わった……その名前と共に。原因は不明だが、その後『クロサメ』を結成し、黒インクに触れていることから、主にその点で何かあったのではないかと見当がついている」
周囲が沈黙に包まれる。シダレは更に続けた。
「ここからは、何故『シロツキ』が結成されたのか、その全てを語る。その際、この傷も関わってくるだろう」
シダレはそう言うと、自身の帽子の鍔に手をかけ、ゆっくりと上に上げる。何人かが口を両手で覆ったり、息を呑んだりした。
「今から1年以上前。『クロサメ』がイカスツリーを襲撃するよりも少し前のことだ――――」
シダレは下ろした右腕に、でんせつのぼうしを持ったまま、ゆっくりと己の過去を話し始める。こちらを見つめる目の多くは、額左側の黒い十字が刻まれている場所に注がれていた。