top of page

EPISODE:10

懐かしい声が呼びかけてくる。

 その声に呼びかける前に、相手はいなくなっていて。

「教えてくれ」

 お前のことも、どうしていなくなったのかも。

 何も、知らないんだ。

 だから、余計に――――。

 無知だから、1つも見えないから、×い。

 ………………『×い』。

 その言葉自体が、理が、最も恐れていたものだった。


 その日の朝は、自然と目が覚めた。山積みになった本が、床上の大半を埋めている。雑多な自分の部屋からリビングに移り、中央のソファに座った。おもむろに左側の窓に目をやると、外では霧が立ち込めているのが見える。
 少しして聞こえてきたのは、足音と啜り泣き。カエデが行方知れずになってからというものの、ヒメリはずっとその様子でいた。右隣にちょこんと座り込んで、俯く自分の妹は、盗み見るのさえ辛いくらいに憔悴しきっている。
「……今日は、寝れたのか」
 沈黙がいたたまれなくなり、気づけば話しかけていた。しかしヒメリが声を発することはなく、ただ首を横に振った。「そうか……」。シダレはそれだけ言うと、同様に黙り込んだ。
 アタマの中では、あの皮肉ったような笑顔と、最後に見せた彼女の表情が浮かんでは消える。あれは、以前怒りを顕にしたものとは、完全に違う何かがあった。

 そして……あの日から、妹は笑っていない。

 再び口を開きかけた瞬間、インターホンが場違いな音を大袈裟に立てる。ヒメリが動く様子はない。シダレはゆっくりと立ち上がると、玄関へ向かった。
「オキナ……」
 ドアの前に立っていたのはたこTを着た、ミントグリーンのアタマのボーイだった。
「ごめん、急に来て……1人だと、落ち着かなくてさ」
 オキナが気の抜けたような笑みを浮かべた。シダレはそれを見て、目を細める。
 誰もが同じ気持ちを抱えていることは、確かだと感じた。
「中へ」
 シダレはドアを大きく開けると、オキナを招き入れた。
「ヒメリ…………おはよう」
 リビングまで来た後、オキナがどもったように言う。そこでようやく気づいたらしいヒメリが、ビクッと飛び上がった。
「オ、オキナ……おはよう」
 ごしごしと目をこすって、力無く笑うヒメリ。オキナが困ったような表情をこちらに向けたが、シダレは何も言わなかった。
「……少し外へ出る。自由にしてもらって構わん」
 シダレはそう言って、1度自分の部屋へと戻った。

 外の空気は湿り気を帯びていて、着ていたシロシャツは背中に張り付くようだった。家を出て右の角を曲がった少し先。コンビニの自動ドアが開くと、心地いい風が吹き抜ける。
「いらっしゃいませ~!」
 店員の前を素通りして、シダレは店の奥へと歩いていった。
『最後の曲はHightide Eraの……』
 早めに来て正解だった。シダレは目の前の食品が並ぶ陳列棚を眺めるフリをしながら、その時を待つ。
『ごきげんイカがですか? ハイカラニュースの時間だよ!』
 軽快なピアノの音楽が終わり、続いて放送開始を報せるガールの声が聞こえてきた。シダレは目を上げると、天井隅のテレビ画面に集中した。
『まずはじめに、昨日のテロ事件からお伝えしま~す』
 『テロ』という言葉を聞き、、ポケットへと手を伸ばす。もう片方の手で、ヤコメッシュを目深に被り直した。
『……またしても、『クロサメ』が街を襲撃するテロが発生しました。場所は――――』
 ここ暫くは、家でテレビを点けないようにしている。ヒメリが初めて『クロサメ』に関わるニュースを見た日。ボロボロと泣き出すあの姿を、シダレは簡単に忘れることができなかった。
 ――――カエデが、何で……?
 映し出された映像には、見慣れた、しかしアタマが黒く染まった彼女。そして、彼女とその仲間たちによって黒く塗りつぶされた街。泣き崩れるヒメリの隣で、シダレは彼女とその仲間たちが襲来した様子の1部始終を凝視していた。
『続いてはモズク農園の収穫祭について――――』
 テロ事件に関する1通りの情報を紙面に記入して、そっとポケットの中に戻す。そして、目の前の食品に手を伸ばすと、他の客と同様にレジへと向かった。

 自宅へ戻ってきても、2人の様子は相変わらずだった。オキナがヒメリの傍に腰掛け、呆然とした表情で虚空を見つめている。ヒメリも正面を向いたまま、膝を抱えていた。
「好きなものを食べろ。俺は余った物でいい」
 シダレは2人の目の前にある小さな机の上に、食品が入ったビニール袋を置いた。
「ありがとう……」
 オキナが小さな声で言った反面、ヒメリは僅かに頷いただけだった。
 シダレは2人の様子を尻目に自室へ戻り、ゆっくりとドアを閉めた。それから、そこへもたれかかる。自然と吐息が漏れた。
 2人とも、同じ気持ちを抱いているのだろう。
 こうなってしまったのも、元はといえば、全て己の…………。シダレはアタマからヤコメッシュを外すと、ベッド上へ投げる。あとひと言、それさえあれば……否、彼女の話を聞いていれば、こんな『今』はなかったのかもしれない。

「お前は、間違っている」

 あの時、本当は――――。
 その現実は、溢れたインクのように、タンクに戻ることはない。

次の瞬間、彼女は手の届かない所へ行ってしまった。

 シダレは頭(かぶり)を振り、山積みの本の1番上に置いてあった資料を掴んだ。テーブル上で折り目を広げると、ハイカラシティ全域を示したマップが姿を現す。その上に、複数の×印と数字が記されていた。
 昨日は此処で午後8時40分頃に、クロサメが目撃された。メモを開くと、先刻収集した情報を元に、新たな跡を刻んでいく。
これで8回目。警察が追えど、事態は悪くなる1方だった。
 襲撃箇所から、今回は物資の調達が目的だったのだろう。となると、そろそろ新しいナワバリ――――すなわち、リスポーンデバイスの奪取が行われるはずだ。彼女たちの行動パターン、現状を察するにおそらく……。
「シダレ?」
 ドア越しのくぐもった声がした。
「何か用か、オキナ」
 シダレは咄嗟に資料を折りたたみ、本と本の間に差し込んだ。
「う、うん……とりあえず、入ってもいいかな」
「……分かった」
 少し躊躇したが、何でもない風を装って頷く。ドアノブが下がり、オキナが隙間から中を伺った。
「すごい本の数だね。これ、全部読んだの?」
 後ろ手にドアを閉めながら、オキナが辺りを見回す。しかし、シダレはその問いには答えなかった。
「用件は何だ」
 含んでいる。直感的にそう思った。
「えっと……端的に言えばアレだよ。その……最近の事件とか…………」
 オキナが気まずそうに頬を掻く。シダレはため息をついた。
「クロサメと、カエデのことか」
 切り出した途端、オキナが面食らったような顔を見せた。
「そ、そうだけど……でも、いいの?」
「ヒメリはともかく、俺は問題ない。先程も外で、関連の情報を収集していた」
 少しの間、沈黙が続いた。
「……オレも、自分なりに色々調べてたんだ。だってさ、カエデはきっと……そんなことするはずが…………」
 オキナが口を開いたが、すぐに尻すぼみになった。シダレは伏せた目を上げることもなく、黙って耳を傾けていた。
「分かっている」
 シダレはようやく、ひと言を零した。オキナがこちらを見つめてきたようだった。
「シダレも同じ考えなんだね…………」
 シダレはようやく、オキナの瞳を覗いた。
「あのさ、めちゃくちゃなことかもしれないけど……オレは、カエデが戻ってきてくれるって信じてる。だから、その時はシダレも迎え入れてくれたらなって思ったんだ」
 オキナが笑みを向けた。
「だから、そう言ってくれただけで安心した。……ありがとう」
 シダレは1瞬目をそらしたが、オキナがそれに気づく素振りを見せることはなかった。
「オレの話はそれだけ。それと、もうそろそろ帰るよ。ヒメリにも気遣わせちゃうしさ」
 そうして、彼は部屋を後にした。
 何も言わず、再び閉じたドアに視線を投げかける。玄関の戸の音が、遠くから聞こえてきた。
「戻ってきてくれる、か……」
 シダレは不意に呟いた。
 それでいい。
本に挟まった資料に手を伸ばし、再度テーブル上へ広げる。それから、数箇所に線を引いた。

 誰も巻き込むわけにはいかない。
 
あの時の言葉が、彼女を遠ざけてしまった。

 その罪は……他の誰にもないのだから。

 物資調達後は、テロ事件も比較的大きなものになる。鮫は常に腹を空かせているからこそ、餌を与えれば与えるほどに喰らい続け、成長するのだ。更に、今彼女たちが欲しているのであろうリスポーンデバイスの場所も、ある程度目星が付いていた。
「決行は……」
 マップ上に今日の日付と、夕方帯の時刻を記入する。そして、シダレは自分の部屋を出た。

 窓から、燃えるような夕日が臨めた。

 妹は寝室に戻って、独りで泣いている。

「すぐに戻ってくる」

 誰もいないはずの大通りで、そんなことを漏らす。

 でんせつのぼうしの鍔が、オレンジ色の煌きを放った。


 空の端が紫がかっている。狭い路地裏の壁には、無数のパイプが張り巡らされていた。
 シダレはハイドラントを置き、マップを広げた。今のところ、イカは見かけていない。リスポーンデバイスはおそらくバトロイカの警備隊が守っている。クロサメも迂闊には近づかないだろう。とすれば、今は高台で様子を窺う方が無難か……。
 情報通り、角を曲がった先に、屋上へと続く寂れた階段があった。シダレは手すりを握り、1段目に足を踏み込む。
 カツン、という音。手すりが若干震えた。シダレは更に登ろうと脚を前に出した。
「誰かいるのか?」
 2段目に脚をかけた時、知らない誰かの声が聞こえた。その1瞬で、自身の鼓動を強く感じる。すぐに階段から離れ、傍にあった木箱の裏に身を潜めた。
「おい、これ見ろよ」
「ハイドラント……? これを使ってる奴なんて、うちにいたか?」
「さぁな。何にせよ、敵は潰さなきゃならねえ」
 T字路の角から現れたイカの影は、踵を返してこちらに歩いてくる。僅かな光に照らされた彼らのギアには、黒い傷跡――――クロサメのエンブレムが刻まれていた。
 まさか、既に作戦を開始しているのだろうか。活動のステップがあまりにも早すぎる……。ニュースの話以上にクロサメは巨大に、そして街を脅かす存在になりつつあるのだと、皮肉にもたった今、自分の身を以て知った。
 致し方ない。今の無防備な状態でテロ集団と接触することはなるべく避けたいが、ここは1度話をする外ないだろう……。シダレは積み上げられた木箱に触れ、表へ出ようとした。
「待って!」
 突然、遠くから叫ぶような声が聞こえてきた。それを耳にして、シダレは思わず動きを止める。
「何だ、お前」
 1人が振り返り、後ろから駆けてきたイカに怪訝そうな口調で聞いた。
「あ、あの……オレはキミたちの知り合いに用事があるんだ。でも、何処にいるか分からなくて……」
 何故、お前が――――?
 日が落ち、暗闇に包まれた路地裏に、照明が灯る。その下にいたのは、クロサメの団員たちと、彼らに真剣な眼差しで話しかけている、オキナだった。

bottom of page