EPISODE:21
ざわめきが聞こえる。続いて、何かを咎めるような声がした。暫くすると、辺りは静寂を取り戻す。
椅子の脚が床を擦ったらしい音。上に掌を向けた左手に、暖かいものが重なる。
…………………………。
ぼんやりとした意識の中、一人のガールが薄く瞼を開けた。
まず目に入ったのは天井。白い板に、これまた白い蛍光灯。視界の両脇には薄緑色のカーテンがある。そして……虚ろな目をしたボーイが、俯き気味にガールの手を見つめていた。
「オキナ」
ガールはそう言おうとしたが、口から出たのは絞り出された空気だけだった。その上、妙に胸が苦しい。ガールは思わず、少しだけ身をよじった。布団が引きずられ、ゴソゴソと音を立てる。
「アオイ……?」
たちまち、ボーイが顔を上げる。二人の目が合うのに掛かった時間は、ほんの数秒だった。
「…………!」
ガールの顔を見た途端、ボーイの茫然とした表情が驚きに変わり、最後に笑顔とも泣き顔ともつかない微妙な形になった。
「……何だ、アンタがそんな面するなんて……珍しいじゃないか」
ガールが今度こそ、掠れた声でそう言った。「だって……もしアオイが…………いなくなったら……どうすればって――――」ボーイがごしごしと目をこすり、言葉を漏らしていく。ボーイの腕を、一筋の涙が伝った。
「ま、待ってて……医療担当の人、呼んでくる!」
ボーイが赤くなった目元を乱雑に拭くと、バタバタとその場を去った。忙しないヤツ。ガールはその姿に安堵し、息を吐いた。胸の締め付けは、気づけば消えていた。
「じゃあ……本当に大丈夫なんだね?」
「あぁ。このとおりさ」
アオイが目を覚ましてから数時間。医務室の一角では、談笑している二人の姿があった。
「でも、しばらくは安静にしてなきゃ。勝手に飛び出すようなことがあったら、見張りを任されたオレも怒られちゃうし」
オキナがアオイに向かって笑いかける。一方でアオイは既に起き上がり、同様に顔をほころばせていた。
「ところで――――――」
アオイはあの日――――クロサメのシロツキの全面対決以降の一週間で、具体的にどんなことがあったのかオキナに尋ねた。
「そうだね……オレが知っている限りなら、まず第一として今週は殆ど抗争が無かった。……こっちもシロツキもリーダーがいなくて統率は下がっただろうし、何よりみんな負傷も、そしてあの戦いに思うところもたくさんあったんだと思う」
そこまで話すと、オキナは微妙に目をそらす。アオイは首を傾げた。オキナがそれに気づいたのか、すぐに取り繕うようにして笑うと話を再開した。
「とはいえ、勝手に活動している人も少なからずいたんだけど……まぁそれは置いといて。他には――――」
そこから、オキナが様々なことを語ってくれた。アオイを心配し、オキナだけでなく医務室を訪れている人がいたこと。全面対決が雨天により幕引きした際に、シロツキの幹部であるヒメリがある提案をしてくれたこと。
――――全面対決時に、それまでのどの作戦よりも多くの死傷者が出たこと。
「……大体こんな感じかな。でも、オレが知らないこともあると思うし……もしかしたらもっと色んなことがあったかも。思い出したら追々知らせるよ」
オキナが話し終え、後方の壁に掛かった時計を見やる。「もうこんな時間か……」地下ということもあって医務室は相変わらずの雰囲気だったものの、針は夕暮れ時を差し示していた。
「そろそろ行かなきゃ……ああ、最後にこれを渡しておくね」
そう言いながら立ち上がったオキナが取り出したものは、数枚の紙束だった。
「……実はほんの数日前に、少しだけヒメリと会って話をしたんだ。その時に、アオイに持っていて欲しいってヒメリが――――」
アオイは無言で受け取ると、パラパラと紙を捲る。見たところ、手書きの資料のようだ。それも両面にびっしりと文字や記号が書かれている、やたら手の込んだもの。
「ありがとな。このあとにでも読んでおくよ」
アオイは目を上げると、オキナに礼を述べた。
「わかった。それじゃ――――」
「あ、あと一つだけ」
アオイはオキナを呼び止めた。
「あのさ……アタシは、もうシロツキのことを――――」
「分かってる。だから、その紙を渡したんだよ」
オキナが表情を見せずに言った後、アオイの方を振り向いてにこりと笑った。
「それに、オレは……アオイのために此処にいるんだ。……この先アオイがどんな選択をしても、オレはずっと一緒にいるから」
オキナがそこまで言い切ると手を振り、医務室を去っていった。アオイは扉が再度閉じるまでオキナを見送ると、手にした資料へ視線を落とす。
「…………………………」
一瞬目にしただけでも察することができたのは、ずっと前に見慣れていたからだろう。イカスツリーの下でいつもこんな紙を、アイツ――――シダレから貰っていた。家に帰った後、読む気の無かった資料は「丁度いいサイズの紙だから」と言って折り曲げては紙飛行機にして遊んだこともあった。
思わず、包帯が巻かれた指先に力が入る。クシャっという音。紙には僅かな皺が刻まれた。
「……アイツは――――」
結局、どうなったのだろう。
そんなことを今問うても、答えることができる者、ましてや答えてくれる者など、誰ひとりとしていなかった。
数日後。ようやく医務室を出て過ごすことを許されたアオイは、広間にいた大勢の団員たちから飛び交う質問や話題に受け応えていた。
「あまり無闇に話しかけてもアオイが――――」
「まぁまぁ、いいじゃないか。アタシは大丈夫なんだからさ」
ガヤガヤと賑わう周囲を咎めたオキナを、ソファに座ったアオイは軽くなだめた。
「ところでリーダー、その……」
一通りの話を聞き、答え終えた頃。一人の団員が気まずそうに口を開いた。
「僕たちはこれから、どうするのですか?」
突然、辺りが水を打ったような静寂に包まれる。ボーイの隣にいたガールが肘で軽く小突いた。誰しもが聞こうと思いながらも、言い留めていた問いだったのだろう。少なくともアオイはそう感じた。
「……『革命』は、終わらないよ」
アオイはぽつりと呟く。オキナがぎょっとして振り向いた一方で、団員たちからは安堵の声も聞くことができた。
「それじゃあ、今後もシロツキを倒して――――」
「悪いけど、そういうことでもないんだ」
アオイは俯きかけた顔を上げ、団員たちに話しかけた。
「アタシたちは今までとは別の方法で『革命』を――――ナワバリバトルの在り方を変える。……だから、以降シロツキはアタシたちの敵じゃなくなるんだ」
笑いかけてみたものの、笑顔で返す者は誰もいない。それでもアオイは、淡々と話を続けた。
「……アタシはさ、自分のことでみんなの居場所まで奪いかけた。革命を完遂する頃にみんながいなかったら意味なんてない。でも、完遂するには今よりもずっと長い時間が必要だ。……それじゃあ、アタシたちは『革命』が終わる前に力尽きてしまう。そんな初歩的なことに気づかないフリをし続けてきた」
誰かが息を呑んだ。アオイは唇を噛んだ後、また口を開く。
「それに、シロツキは……相手の幹部は、アタシにこんなものを寄越した」
手にした紙を、団員たちに見えるように掲げる。
「ここに記されているのは、シロツキがクロサメとの抗争を終えた後、ナワバリバトルを再構築する時のことを想定して考えられた提案だ。ちょっと難しいし、紙が汚いもんだから一部読み取れなかったんだが……それでも、大抵のことは理解できた。シロツキ、というか相手のリーダーは……ちょっと悔しいけど、アタシたちが作ろうとしていた理想のセカイの答えを、既に見つけていたんだ」
悔しい、という言葉とは裏腹に、アオイは微笑む。
「これなら、クロサメのみんなも苦しまなくて大丈夫なはず。今のアタシはその確証が持てただけですごく嬉しいし、同時にもう誰も傷つかなくていいのかなって、その……少し、ホッとしたんだ。だから――――」
啜り泣きが聞こえる。ゴメン……でも、アタシからみんなのために、最後の我儘を言わせてくれ。
「――――クロサメは、以後シロツキとは共通の目標を持つ存在として接していく。争いは……ルールのあるナワバリバトルが出来上がるまで、お預けだ」
しんとした中、アオイは話を締めくくる。罵声や暴言は覚悟の上で話していたが、やはりその後は目をつむってしまった。
「リーダー――――」
喉元が脈打った。その時、アオイの前に一つの影が立ちはだかる。
「クロサメは、アオイが作った集団だ。反論があるなら今すぐこの場から立ち去ってもオレはいいと思う。ただ、今ここでアオイに手を出すような真似をするのなら……オレが許さない」
瞼を見開くと、オキナの背中があった。
「お、おい……何もそこまで…………」
「………………」
アオイは立ち上がり、オキナの肩を掴む。彼の横顔は呆れてしまうくらいに本気だと語っていた。
「……リーダー、僕たちは――――」
「い、今すぐ決めろとは言わないよ! でもそうだな……アタシとオキナは、相手の幹部と話す機会がこれから増えると思う。だからえっと……みんなはそれを認めてくれるかい?」
よもや3Kスコープカスタムを構えかけたオキナを半ば強引に落ち着かせながら、アオイは団員たちの目を見て聞いた。大多数が周囲と目を合わせ、そして無言でアタマを縦に振ってくれた。
「ありがとう。できるだけ、良い方向に進められるよう努めるから」
アオイはオキナからブキを取り上げてから、再び笑いかける。数人が笑い返してくれただけでも、アオイにとっては十分なことだった。
青い空と黒い波を背景に、アイツは笑った。
今まで見たこともない笑み。とても、とても嬉しそうな笑み。
可笑しいくらいに似合わない表情だった。だから余計に分からない。
アイツはどうして、アタシに――――――――。
「アオイさん?」
不意に名前を呼ばれ、アオイは我に返った。
「え? あ、あぁ……どうした、ヒメリ?」
慌てて平然を装うが、向かいの席に座るヒメリが首をかしげた時点で少し肩を落とした。
「ええっと、何処まで聞いてたかな……もう一回、説明するよ」
オキナがアタマを掻いて、手元の資料を見る。「多分、このあたり……かな」アオイはオキナの資料にある一文を指し示した。
「だ、だいぶ前だね……」
「え……?」
「あぁ、オッケーオッケー! じゃあそこからまた話を――――」
「や、やっぱりそれは後回しにして、先を進めてくれないか……? 大丈夫、次はちゃんと聞くから!」
苦笑するオキナを見て、アオイは咄嗟に付け加えた。その様子を傍観していたヒメリが、クスクスと笑い出す。アオイとオキナは勢いよくヒメリの方を向いた。
「すみません、何だか…………懐かしくて」
目元を指先で擦りながら、ヒメリが言った。二人は顔を見合わせ、同じように吹き出す。
「そ、そうだな……」
アオイも目に涙を溜めていた。久しぶりに、心の底から笑えた。
「それで、アオイさん――――」
「そんな格式張った感じじゃなくていいよ。何なら……カエデでも構わないから」
アオイの言葉に、ヒメリが目を瞬かせる。それから、表情晴れやかに頷いた。
「カエデ、今私たちが抱える課題は――――」
イカスツリーの真下、密かに設けられた会議室には和気藹々とした空気が漂っていた。
…………一つの空席を、残したまま。
ようやく話し合いも終わり、片付けが済んだ頃には日が暮れかけていた。
「それじゃあ、三日後にまた来るね」
ヒメリがニコッと微笑み、手を振った。イカスツリー前の広場へ向けて踵を返そうとした彼女に、アオイは声をかける。
「ヒメリ、あのさ」
「? なぁに、カエデ?」
ヒメリは微笑みを崩すことなく、アオイに聞き返した。それを見て、アオイは口から出かけた言葉を呑み込む。
「ゴメン、やっぱり何でもない。……またな、ヒメリ」
アオイの言動に、ヒメリは疑う様子すら見せなかった。その後、アオイはオキナと二人、ヒメリの影が広場から消えるまで、その背を見守っていた。
「……アオイ」
オキナが手を下ろし、アオイへ話しかける。
「し、シダレのことなら――――」
「腹減ったな! 今日の夕飯、何だったっけ?」
空元気を振り絞り、アオイはオキナに聞く。オキナが目を見開いた後、安心したようにため息をついた。
「シロツキ側からちょっとだけ食料も貰えたし、久しぶりに美味しいものが食べられるんじゃないかな」
「そうだったな。じゃあ今から厨房に行って味見でも――――」
「つまみ食いの間違いでしょ?」
イカスツリー内に戻りつつ、他愛もない話をする。それでもアオイの心には、僅かな引っ掛かりがあった。
時は既に、最後の抗争から二週間が経過しようとしていた。
連日は同じ夢を見ていた。アイツが笑って、それから黒い波に飲み込まれる。……黒インクを最後に使った時と、変わらぬ夢だ。
もしも、あの夢が真実だったなら。何度、そう思ってしまっただろう。
約束の三日後がやってきた。アオイとオキナはイカスツリー前でヒメリを待ちながら、今日の議題についておさらいの真最中だ。
「うーんと、確かここは……」
「昨日自分で『閃いた!』って言ってたじゃないか。ここのシステムはアオイ本人から説明してもらわないと……」
「えー……何だったっけ…………」
アオイは思い出そうと唸りながら、チラと目線を広場に向ける。約束の時間はとうに過ぎているが、ヒメリの姿は見当たらない。
「どうしたんだろう……まさか反対派に襲われたんじゃ……」
「シャレにならないようなこと言うんじゃないよ」
アオイはオキナを咎めたが、その不安を拭えないのは事実だった。今はクロサメもシロツキも関係ない。それはつまり、「所属問わず味方も敵も存在する」ということ。実際のところ、ここ数日は各地で小さな暴動が起き、アオイとオキナも鎮静のために出撃していた。追い払った反対派の中には、ほんの少し前までクロサメの団員として共に過ごしていた者も……。
その話は後だ。アオイはかぶりを振った。とにかく、今はヒメリの安否を確認しなければ━━━━。
「リーダー!」
アオイが動こうとしたまさにその時、背後から誰かに呼ばれた。
「どうした? 随分急いできたみたいだけど……」
振り返ると、息を切らしがら膝に手をついているガールがいた。かなりの距離を走り回っていたらしい。
「た、たった今シロツキにいる私の知り合いから連絡があって……どうしてもリーダーに伝えなきゃと思ったことが…………」
ガールが額の汗を拭いつつ、ようやく顔を上げた。
「……相手のリーダーのことですが━━━━」
「!!」
アオイは目を見開く。
「アイツが……何だって」
そう問うたアオイの声は、どうしようもなく震えていた。ガールが一呼吸置き、口を開く。
━━━━あの夢は、現実だったらしい。
「カエデ━━━━━━!?」
ガールからの報告を聞いた瞬間、カエデは思わず地面に膝をついた。
「以上をもちまして、シロツキとクロサメの和解交渉を『成立』とします」
凛とした声が告げる。静かな、静かな日のことだった。
『黒に呑まれた彼の手が、僅かに見えた。彼女は迷うことなく、その手に向かって片腕を伸ばす。そして……』
『彼女の手には、』